サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

『月の満ち欠け』をジャケ買い

 京都、先斗町を三条方面へ向かって突き当たり、鴨川方面に向かって歩いた南側、川沿いに、Riversideという輸入レコード店があって、一九八〇年前後で六年ほど、多い時で週一回ぐらい、足しげく訪れていました。窓から鴨川が見えていた、という記憶がありますが、後からの思い込みかもしれません。そしていつだったか、河原町蛸薬師あたりの東側、雑居ビルの狭い通路を通って、三階だったかな、窓のない一室で「どこがリバーサイドなの!」というところへ移転しました。

 足しげく通っていた、とはいっても、暇はあるがお金のない学生だったので、購入するのはせいぜい月に一、二枚くらいなもの、ほとんど一人でジャケット鑑賞に浸っていました。レコードの情報源は「ロッキングオン」と「ミュージックマガジン」、知人に借りて読み込み、レコードを見にリバーサイドへ、ついでにクレジットまで確認、です。あとは一枚につき一秒もしないスピードで、レコードのジャケットのチェック、時々、目に留まるものがあるとじっくり見惚れる、その繰り返しで、一時間ほど過ごしていました。おかげで、「ジャケ買い」の嗅覚がきたえられました(余談ですが、日本酒も高確率の「ジャケ買い」が通用しています)。

 小説の類は、単行本では場所をとるので、また、新書などと違い、タイムリーなものを求めていないので、ほぼ文庫化されてから購入しています。にもかかわらず、佐藤正午作『月の満ち欠け』(岩波書店2017)は「ジャケ買い」してしまいました。また、装画が、ジャケット装画、と表記されているのもうれしい。

 ペーパーバック版も、二〇一九年に直木賞受賞作が「岩波文庫的」に颯爽と登場、発表後二年で岩波文庫は無理だけれど、なんとしても自社から文庫化を、という心意気に惹かれ、手元にあります。岩波文庫なら思想系は青、とか区分けがありますけれど、的ですからそれに従うわけにはいかない、Sという区分けで、グリーンっぽいベージュ(単行本のジャケットのベースカラー)です(静物画家ジョルジョ・モランディ好きの私にとって、大好きな色合いです)。マークの「種をまく人」も五分の一ほど塗り残しで、これも岩波文庫的で、細かい心配りです。

 二冊も所持しているのですが、佐藤正午はお気に入りの作家の一人ですので、まあいいか、という感じです。映画化される(映像鑑賞時は涙もろくなるので、おそらく観ないでしょうけれど)ということで、何度目かの再読をしました。

 内容は「素晴らしい」の一言、さまざまな伏線が配せられ、関連付けられ、見事に回収されてゆく様は、まさに圧巻、とさえ言えそうです。「熟練の業」を堪能できます。

 主人公は人妻瑠璃さんと大学生アキヒコ君(ということにさせていただきます)。二人はささやかな出会いから、不思議な距離感を保ちながらも惹かれ合い(お互いの、相手に対する距離感、が心地よかったのでしょうか)、そして、何となく不倫の関係を持ちます。しかし、不倫という言葉が、まとわりつくような関係になってしまう前に、瑠璃さんは突然の事故死、「試しに死んでみる」、それも「月のような死」を、と語った一週間後に。二人にあった「不倫関係」という「業《ごう》」は、宙ぶらりんになって、どこかに、しこりのように残ったままです。その「業」を昇華させようと、繰り返される「月の満ち欠け」、月が満ちてくると業の雲がかかり、照らして光らせることができません。満ちた月でないと、照らして光らせられないのです。そして、さまざまな伏線が関連付けられ、回路が通じることで業が昇華、雲は霧散し、「瑠璃も玻璃《はり》も照らせば光る」状態への可能性が開かれ、満ちた月の光を受け、照らされた、内なる瑠璃が光り、その存在が神々しく輝きを放つ、めでたしめでたし、という話です。

 思い入れたっぷりですが、内容紹介にさえなっていません。感想文として提出したら、書き直しを命ぜられるでしょう。とりあえず、読んでください、というメッセージであります。

 で、ペーパーバック版を読んだとき、ふと、川端康成の『雪国』を連想しました。文芸評論家のどなたかが、都会からやってきた島村は、トンネルを抜け、雪国という「異界」にやってきて、トンネルを抜けて都会へ帰ってゆく物語だ、と評していたのを思い出し、それが連想させたのでしょう(正確に言えば、『雪国』が思い浮かび、それでなのか、と思い至ったのですが)。異界というか、此岸と彼岸(仏教的な意味合いでなく、こっちとあっちという感じです)で、その境界にトンネルがある、というイメージです。テーマパーク的体験、と言ってもいいかもしれません。旅行では、家を出るところから、いや、準備段階から経験は始まりますが、テーマパークでは、入場口を通過してからが体験の始まりです。

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」、トンネルが入場口で、雪国がテーマパーク、ということですね。島村は、芸者の駒子と過ごした雪国での体験を「雪国」という箱に閉じ込めて、トンネルを抜けて都会へ帰ります。そして、その箱は雪国にやってきて、はじめて開けられるのです。つまり、都会にいるときは、閉じられたままなので、島村には何の影響も及ぼしません。島村は雪国での傍観者でしかなかったのです。

 この、此岸と彼岸、ということで思い浮かんだのでしょう。アキヒコ君のいる此岸と瑠璃さん的な彼岸、と言っても、アキヒコ君は傍観者ではありません。また瑠璃さんの想いに囚われた彼女たちは、アキヒコ君の存在を、大袈裟ですが、聖女が彼岸のイエスの体感を望んだように、求めます。瑠璃さんとアキヒコ君が干渉し合い、様々な経験(体験ではありません)を積み重ね、受け継ぐことで、クライマックスを迎えます。ここが視線の文学である『雪国』との大きな違いです。

 ついでに、「瑠璃も玻璃も照らせば光る」、この言葉に触れると、いまでも、涙が浮かびそうになります。

日本は「ポスト近代国家」なのか

 前回の記事で「国益よりもアイデンティティが重視される」と述べましたが、脚注をつけるのを忘れてしまいました。クーパーの言っていることです。せっかくですので当該部を引用しておきます。

 ……正常な利益計算に従えば、イランはイスラエルと同盟関係を結ぶか、さもなくば、少なくともパレスチナ問題に対して中立の立場をとるべきである。イラクとの戦争が、このことを明確に示した。損得勘定をすれば、イランは「敵の敵は友人」という考えに戻っていたかもしれない。しかし、イランがそうしなかったことは、イスラム国家としてのアイデンティと連帯感の方が、国益より重要だったことを示している。……非民主主義国家であっても、大衆を考慮に入れないわけにはいかない。多くのアラブ国家にとって、パレスチナは外交的関心事であると同時に、国内問題でもある。それは、アメリカにおけるイスラエルの問題も同じである。国内問題が国外問題に勝るのと同じく、アイデンティティが利益より優先されるのである。*1

 ちなみに、「イラクとの戦争」とは「イラン・イラク戦争(一九八〇~一九八八)」のことで、一九七九年に起きた「イラン革命」の影響が、自国内のシーア派住民に及ぶのを危惧したイラクサダム・フセインがイランに侵入したこと、からはじまりました。

 では、本題に入ります。

 ポスト近代国家とは、EUが典型である、と述べました。もちろん、その体現している論理は、EU域内でだけ通用するものでしかありません。その協調性は、法による支配と人権を尊重する国々とは共有されますが、それを軽視している国々とは協調できない、のです。つまり、近代国家とは国民国家を基礎としており、そのポスト形態ですので、自国だけではなく、かの国も国民国家である、と同等に尊重し合う関係を築けていることを言います。

 それでは、我が国はポスト近代国家なのでしょうか。日本はG7のメンバーですのであり、価値観の面では、協調重視ですので、そうであるといえそうです。しかし、同盟については、自身の価値観にそった同盟を結ぶことはできていないので、そうともいえない、のかもしれません。国内に目を向けますと、合意や説明責任の軽視、問題を明確化をなおざりにする、という傾向が見受けられます。合意形成を優先しない、つまり、納得できないままで、うやむやになってしまう、これが国内、対外関係に潜んでいると考えられます。

 いくつかケースをあげましょう。

 「モリ・カケ・桜」疑惑、今更なのですが、記録の軽視が問題でした。説明を前提となる記録がないのですから、信用を得ることはできません(まして、対外関係では)。もし、説明を前提とする記録を残そうとするならば、為されることへの倫理も保たれるはずです。

 安倍元首相の国葬が九月二七日に行われます。国葬は政府の決定によって行うことは可能ですが、様々な方面からの批判を受けています。それへの返答や国会での説得はなされていません。せめて、国葬の基準やあり方は議論されるべきです。それで、国葬の時期が遅れても問題でないはずです。何より問題は、自民党中心の政府であるから、国葬になりましたが、他の政府であれば、行われない可能性もあるでしょう。そのときの政府の判断で、ある人が国葬の対象になったりならなかったりする、国事がそんないい加減なことではならないはずです。

 難民認定率の低さ。コロナ禍以前、二〇一九年の出入国在留管理庁発表の数字で、同庁ホームページからのものです。
 

難民認定申請者数は10,375人で,前年に比べ118人(約1%)減少。また,審査請求数は5,130人で,前年に比べ3,891人(約43%)減少。
難民認定手続の結果,我が国での在留を認めた外国人は81人。その内訳は,難民と認定した外国人が44人,難民とは認定しなかったものの人道的な配慮を理由に在留を認めた外国人が37人。

 難民認定でなく在留認定者の数字をとっても、0.7%というものです。それは一九五一年の難民条約の定義を厳密化しているので、認定率が低い、と言われており、偽装難民という問題がある、とも言われています。しかしそれは、どこの国でも同じ条件なので、認定者側の怠慢である、と言われても仕方ありません。条約を倫理的にどう解釈し、事例に対するか、を重視するのではなく、ただ業務をこなしているだけ、であるかのようです。

 これらは外部に対して「説明しなければならない」という意識の欠如がある、と思われます。内向けの視線だけなのです。そこは空気が支配*2している場で、そこに属している人たちは「空気」をまとい、まとわりつかれています。これがグローバルな関係を担う「ポスト近代国家」である、と言えない要因と言えます。

*1:ロバート・クーパー『国家の崩壊』(日本経済新聞出版社2008)176~7頁

*2:山本七平は、戦艦大和の出撃が無謀である、ことの根拠となる明確なデータがあるのに、それを主張できる「空気」ではなかったため、無謀な出撃の決断が下された、という例を挙げています。

中国・ロシア・そしてウクライナ

 イギリスの外交官ロバート・クーパーは、国家の形態をプレ近代国家・近代国家・ポスト近代国家の三つに区分しています。*1

 名称だけでもわかりそうですが、クーパーの説明を要約します。プレ近代国家とは、正当に国家が暴力、を独占できていない不安定で脆弱な国家、としています。近代国家は、ナショナリズムと好戦的な性質、自国を保障する手段としての軍事、を有しています。そして、国内に対しても、外交政策と同等の監視、によって支配しようとしています。ポスト近代国家は、EUが典型です。国家の相互依存、国境を重視しない、という特徴があり、つながりの強化のために、国内問題にも干渉しあい信頼関係を築こう、という傾向を持ちます。

 しかし、現実には国家を、単純に三つのどれか、に当てはめるには無理があります、が分類として利用するには便利です。ただ、ロシアと中国は近代国家である、といえそうです。両国の特質は、近代国家と新自由主義にある、と思います。それに関連する出来事を年代順にあげてみましょう。

 まず、中国です。一九五六年、「百花斉放《せいほう》・百家争鳴」で、知識人による自由な発言をうながしましたが、党批判が強まり、弾圧・社会的地位の剥奪、という結果になりました。そのためか、一九五八年に、急進的な社会主義化で高度成長を成しとげようと「大躍進」という軌道を逸した運動で導こうとします、弾圧により、知識人不在ですから、経済に大混乱をきたすだけでなく、数千万人に上る餓死者を出しました。そのため、毛沢東国家主席を辞任します。一九五九年には、劉少奇《りゅうしょうき》が国家主席に就任し、軌道修正をはかり、回復のきざしを見せてきました。しかし、毛沢東は傍らで苦々しく見ており、一九六六年に悪名高き「文化大革命」を引き起こし、その凶事は毛の死の一九七六年まで続きます。それにより、経済が落ち込んだのを受けて、一九七八年、鄧小平《とうしょうへい》は「改革開放」の方針を打ち出し、「社会主義市場経済」という体制を採用します。*2イギリスのマーガレット・サッチャーが首相就任する前年です。

 ついで、ロシア。一九八六年、ゴルバチョフが不振なソ連経済などを含む態勢を立て直そうと、ペレストロイカを掲げ、西側的要素を取り込もうとしますが、それに取り込まれることになってしまいます。その結果が一九九一年の「ソ連邦の解体」です。それにより「ロシアでは、新自由主義的な〈ショック療法〉後に一握りの強力な新興財閥《オリガルヒ》が台頭し、一九九〇年代に同国を支配した」と、デヴィッド・ハーヴェイは述べています*3

 近代国家と新自由主義とのつながりですが、ハーヴェイの定義が参考になります。

 新自由主義とは何よりも、強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論である。国家の役割は、こうした実践にふさわしい制度的枠組みを創出し、維持することである。例えば国家は、通貨の品質と信頼性を守らなければならない。また国家は、私的所有権を保護し、市場の適正な働きを、必要とあらば実力を用いてでも保障するために、軍事的、防衛的、警察的、法的仕組みや機能をつくりあげなければならない。さらに市場が存在しない場合には(たとえば、土地、水、教育、医療、社会保障、環境汚染といった領域)、市場そのものを創出しなければならない――必要とあらば国家の行為によってでも。だが国家はこうした任務以上のことをしてはならない。*4

 市場に任せておけば、すべてうまくゆくので、国家はそのサポートに徹すべきだ、ということですね。しかし、国家は様々な使命を持っていますので、新自由主義に忠実であるのは難しいのですが、強権的な「近代国家」では国家主導で実現可能となるでしょうし、日本が近代国家として成立するきっかけとなった日清戦争時、に山縣有朋が用いた「主権線」と「利益線」という二本立ての国境観、も近代国家の要素です。国の安全保障を考えての「利益線」の既成事実化です。

 そして、近代国家だけでなく、権力者は権力の維持を目的とします。権力の基盤は、国益より、提示する国家の物語=アイデンティティに国民を引き付けられるか、にあります。プレ近代国家は、それを提示する能力はありません。ポスト近代国家は、一国でなしに国家間の協調、を重視します。ただ、権力者はその物語を展開するのを重視しますので、路線変更は権力の断念になる恐れがあります。

 ロシア=プーチンは、「大国である」という幻想でしかないプライドを捨て協調へとシフトする、のは権力とアイデンティティを放棄すること、になるので路線変更は困難である、と思われます。この戦争を終わらせるのは、ロシア国民がウクライナに「悲惨」がもたらされている、という共感がめばえてくることにしか、希望がないように感じています。しかし、それには、ロシアの言説状況の特殊性をふまえておく必要があります。

 米国下院外交委員会は、二〇一五年四月一五日、「ロシアにおける情報の武器化に対抗する」という題名で公聴会を開催しています。この米国下院外交委員会において証言した、ロシアのテレビ局の内幕を知るピーター・ポメランツェフは、……次のように言います。
 「ロシアではすべての言説が陰謀説となっています。すべてが陰謀なのです。わたしたちの国際秩序はリアリティを基礎とした政治にあります。もし、そのリアリティという基礎が破壊されれば、国際的な制度や、国際的な対話そのものを維持することができなくなります。虚構は、リアリティに基づく政治を不可能にするのです」*5

 陰謀説についたは、以前触れました*6。深く考えることなしに状況を説明ができるものなので、判断停止で信じ込みやすいものです。ロシアの特殊な事情は、発信源が社会的に信頼がおかれているものである、ということです。

 さて今次のロシアの侵攻で、ウクライナの国家としてのあり方は激変しました。侵攻以前、ウクライナはプレ近代国家でしたが、侵攻への対抗としての、政府のプロパガンダとゼレンスキー大統領のアジテーションによって、守るべき「わが祖国」というアイデンティティがうまれ、国民国家として統一感がうまれました。そして、武器供与など他国への支援の依頼などにより、他国との協調の重要さを共有しています。あたかも、ポスト近代国家であるかのように、です。

 そして、状況が落ち着くと、一一〇〇万人と言われている海外避難者(まだまだ増えるでしょう)をはじめとして、さまざまな復興がなされます。帰国する人たちと、復興のための人とモノ、それらが流入した時、ウクライナは「新たなモデル」の国家となってゆくのでしょうか。

*1:『国家の崩壊 真リベラル帝国主義と世界秩序』(日本経済新聞出版社2008)

*2:岡本隆司『中国の論理 歴史から解き明かす』(中公新書2016)を参照しました

*3:新自由主義 その歴史的展開と現在』(作品社)2007 29頁

*4:同上 10~11頁

*5:松本太『世界氏の逆襲 ウェストファリア・華夷秩序・ダーイシュ』(講談社2016)46頁

*6:

 

sangha-tora.hatenablog.com

 

テロの連鎖の回避のために 5

 安倍元首相への銃撃事件は、ある特定の宗教団体への個人的恨み、による犯行であるので、テロではありません。しかし、容疑者がそのような宗教をのさばらしたまま、放置していた政治や、身内の信仰によりもたらされた不幸をもって、社会から見捨てられたなどと、反感が「社会」に向かってしまえば、テロにつながります。そうです、この事件は、テロ一歩手間の事件なのです。それを防ぐためには、セーフティーネット、なのでしょうが、それに関しては触れません。今まで述べてきたことから考えてゆきたい、と思います。

 まずは、マルクスの「宗教は民衆の阿片」という言葉です。ここでの現実の悲惨は、経済的要因、つまり、貧困という社会問題だけに焦点があります。しかし、信仰へと向かってしまうのは、個人の人生において遭遇する不幸や不安、からの救済を求めて、のものではないでしょうか。貧困による不安は、いまのところ自己申告やハードルの高さ、といった問題はありますが、社会問題として、解消可能です。

 しかし、個人の問題、例えば、災害や事故によって突然大切な人を失って、心が弱っているときに親身になってくれて、「これを信じれば救われますよ」と言われれば、いかに怪しいものであれ、信じてしまうかもしれません。救済としての宗教の役割、ですね。

 この場合、信仰をすすめた側は、救済よりも布教、という意識が大きのではないでしょうか。困っている人よりも、教団の利益が優先が無意識にある、と感じます。

 本来なら(ある種の)人は、救済を求めて信仰に入り、それによって不幸・不安が癒され、そしてそれで卒業になる、はずです。しかし、そのありがたさへの感謝のために信仰を続け、信仰がアイデンティティであるという状態になります。そうなれば、信仰の度合いの(自己)評価、のみを課題とするようになり、信仰は、教団への貢献、として表現されるものとなるのでしょう。つまり、救済から(布教による)教団の拡大へと信仰のあり方が変わってしまいます。

 そのような信仰へ向かう人たちは、各種共同体の安心のネットワークからはじき出された人たちが、その不安から、強い絆を宗教に求める、という仲正の言葉を引用しました。このような人は、元来、ある特定の共同体に強い絆を求める傾向がある、のではないでしょうか。そして、その共同体に属する周囲の人たちからは「重ったるく」受け止められ、はじき出されやすくなっている、のかもしれません。多くの人である周囲は、いくら大きな不安におそわれた、としても、阿弥陀仏や極楽浄土、キリスト教の神、ムハンマドアッラー預言者(言葉を預かる者)など、とそのまま信じることはできない、と思われます。そしてそのギャップがますますギャップを広げ……。

 この意味で、信仰は教祖が見出した真理をそれをそのまま信る、という点で独断論的です。そして、強い絆を守り、それに守られる集団となります。これを富永幸一郎は「外からのスピリチュアルなものの拒絶」(政治のイデオロギーや血の絆といった種族的ナショナリズムに固着することの弊害、に関して述べているのですが)である、と言います。

 インスピレーションは、自分の内側から出てくるものではない。それは外から呼び起こされ、与えられるものである。そして、その「霊」は、目には見えないが、個人や共同体をささえる大切な力となる。人間は、個人においても、また集団においても、自分自身のうちに閉じこもり、他者を受け入れなくなると自由をうしない身動きが取れなくなる。息を胸いっぱいに深く吸い込むこと、生命がそれによってよみがえるように、スピリットは集団・共同体においても、その勇気てな活動のフレキシビリティを保持させてくれる。
              『スピリチュアルの冒険』(講談社現代新書 2007)

 外からくるリアルな何か、をスピリチュアルなものとし、それに対して開かれており、受け止める感性の重要さを指摘しています。そして、そこから、インスピレーションが呼び起こされる、と。

 このスピリチュアルなものへの感性ですが、その基盤は、もちろん私自身、であるのだから、その感性を維持するには、自身への気付き、がなければなりません。つまり、自身と折り合いをつける、コミュニケートできる、ことが前提となるはずです。自身への気付き、マインドフルネス、ですね。自身の身体の細部にまで意識しようとするヨガ、というのもあります。マインドフルネスやヨガは、初期仏教に近いとされるテーラワーダ仏教の修行でもあります*1

 その初期仏教には、出家者の生活・修行の場として、サンガ(僧伽)という集団があります。出家者はそこで修業三昧の日々を送り、「悟り」をえようとします。サンガでは出家者の生産活動は否定されているので、交代で托鉢に出て、それによるお布施によって生活しなければなりません。他者に頼って生活するしかない、ということです。生を他者にあずけるのです。まさに他力にすがって生きる、のです。だから、修行を怠ってはならないのです。立派な僧だと尊敬されていなければ、お布施をしてもらうことなどできるはずはありません。

 出家者は自分のため(自利)に修行して悟ろう(自力)とします。しかし、生活はお布施(他力)に頼るしかありません。お布施を行う側は、(自力によって)手にあるものを布施(利他)します。そして布施をすることは、自力修行されている立派な僧の、功徳の「おすそ分け」あずかる(自利)ことになるでしょう。自力修行をしている出家者は、お布施を与えるものに「功徳」をもたらします(利他)。阿弥陀仏の他力にすがり極楽浄土へ、という親鸞の教えの、始原のような教えがここにあります。

 このサンガのような場が、必要とされている、と感じます。自身が危険な状態に陥りつつある、という自覚を持てることが前提ですが、そのような状態になったとき、出家者として、のように受け入れてくれる組織です。出家ですから、性的な事柄・エンターテイメント・楽しみとしての衣と飲食は禁じられなければなりません。そこで、喪(といってもいいでしょう)の作業を行い、卒業を目指し、社会復帰に備えるのです。心が弱るのは個人問題ですから、マニュアル的解決はありません。自力で喪の作業が行える場が必要なのです。

 しかし、遊行聖や鎌倉新仏教、にさかのぼるまでもなく、高度成長期の金の卵たちの不安の受け皿、としての創価学会について、島田裕巳の論を紹介しました。それは今でも変わらないのです。不安や不幸などの苦の有効な受け皿は、新宗教になってしまう、という現実を忘れてはなりません。

 

 今回、ブログ名を変更します。”サンガの寅さん”、サンガは上に述べたもので、寅さんは、もちろん「フーテンの寅さん」です。キーワードは出家、出家とは、佐々木閑が言っている「自ら望んで、ある生き方(生きがい)を選んだのなら、今の日常の一部を断念する必要がある」*2という意味合いです。

*1:ウィパサナー瞑想と言われています。プラユキ・ナラテボー/魚川祐司『悟らなくって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門』(幻冬舎新書2016)がガイドとして最適だと思います

*2:『「律」に学ぶ生き方の智慧』(新潮選書2011)『出家的人生のすすめ』(集英社新書2015)の主張です

テロの連鎖の回避のために 4

 人権として尊重されなければならないものに、「愚行権」というのがあります。周囲からみれば、愚かであり、過ちであると思われるような行為であっても、他者に危害を与えたり、公共の福祉に反しない限り、邪魔されない自由、という権利です。これは、社会通念として、賢明だとか正しいことだとして、それを強制されることはあってはならない、ためにも必要とされるものです。

 飲酒を例にしましょう(軽度のアルコール依存症でありますので、実感を持ちやすい)。飲酒は、人間関係を円滑にする効果もありますが、量が増えてしまうと、愚行になってしまう要素ばかり、が目立ってきます。本人としては、酔っぱらて「快」の状態になること、を求めているだけなのですが。

 たしかに、酔っぱらいは面倒くさい存在です。自身を省みて、思い当たる(我ながら情けない)ことは多々ありますし、身体(健康)にも負担をかけてしまいます。まさに愚行でしかありません。それだけでなく、酔っぱらって、他へ危害を与えてしまう場合、もあるでしょう。しかし、それは、他へ危害を与えるのがダメなのであって、酔っぱらっているかどうか、は問題ではないのです。一方、飲酒運転がダメなのは、飲酒も運転も禁じられたものではないのですが、飲酒しての運転となると、運転は危険物を扱っているのと同じですから(だから、免許が必要)、判断力の鈍った状態で運転するのは、公共の福祉に反することになるので、権力によって禁じられているのです。もちろん、愚かである、というだけで禁じている、のではありません。

 では、なぜ、愚行権を抑圧してはならないのでしょうか。「多数者の専制」につながってしまうからです。多数者の専制、多数派が少数派を抑圧・無視してしまうこと、を言います。そこには、「話し合いで最低限の合意を」というプロセスは、ありません。

 多数である、ということだけ、が正当であることの根拠となり、「多数であるから正しいのだ」、という思い込みになってしまいます。そこでは、多数の少数(の意見)は愚行と同等、とされてしまいます。そして、民主主義は「多数者の専制」に陥りやすい、と言われています。だから、憲法によって、多数から少数(の権利)を守らなければならない、のです。よく憲法は国家権力に制限を与えるもの、と言われていますが、述べてきた視点の方が重要、と感じています。

 では、本題です。仲正は元信者として、信仰(者)について述べています。

 家族や友人、恋人、学校、職場、サークル、地域、政党そして国家などの各種共同体は、なんらかのかたちで、実在性を証明できないものにもとづく精神的な絆を提供し、各個人を安心させているのだと思う。
 その安心のネットワークから、何かのきっかけではじき出された人たちは、従来自分が属していた集団のそれとは違う――したがって周囲から奇異に見える――かたちで、「形而上学的なもの」にみずからの精神的基盤を求めるようになる。はじき出された人たちが集まって、(従来は見られなかったようなタイプの)霊的絆を基盤とする共同体をあらたに構築しはじめると、第三者的には、それが理解しがたい「宗教」に見えるのではないだろうか。

 生まれた時点で、将来がほぼ決まっていたような時代では、共同体とのつながりは強固でしたが、近代以降、共同体の拘束を解かれた個人の自由、が可能になってしまうと、共同体とのつながりは、「たまたま」というような、いわば場当たり的なもので、絆が弱くなってしまいました。いつ、そこから、はじき出されても不思議ではないのです。そして、当人にとって重要な精神的絆からはじき出されると、新たな絆(精神的基盤)を求めて、「霊的な絆を基盤とする共同体」、つまり、宗教を構築する、と述べています。だがそれは、共同体から裏切られ、絆を見失い、絶望して、のことですから、求めるのは、「強い絆」を与えてくれる共同体、になります。

 その中にある人たちの価値観というのは、

 しかし、統一教会の信者にとっては、信仰によって魂の安心をえられることや、自分の信仰が真の父母さまやその代理であるアベルならびに兄弟姉妹たちから認められること、そして自分の居場所があるということが利益なのだ。
 他人にはすごくいびつに見えても、本人たちにとっては、それが十分に多きな利益になっているのである。

 だとしています。目的は「魂の安心」や「自分の居場所」にあるのですが、それには、協会内での評価が重要になるのでしょう。狂信と呼ばれてもよいくらいの信心と教会への貢献の際限のないエスカレート、へと走ってしまいます。

 しかし、その集団は、他人からみると明らかに「異常」なのです。

 私がいうのも変だが、特定の思想や哲学、教理を共有する閉鎖された集団に閉じこもって、”純粋な絆”や”真の絆”を追及するのは、あまり健全なことではない。閉鎖集団のなかで、”純粋な絆”を求めつづけると、どんどんまわりの世界から遊離して、その集団の中でしか通用しえない、特異な教理に帰依しようとする傾向が強まっていく。

 と、その不健全さを指摘しますが、頭から否定してはならない、とも言います。

 その人が、社会のルールや法律からはみ出した行為を具体的にとらないかぎり、その信仰あるいは信条にもとづく生活を営むことが、妨害されてはならない。具体的に他人に危害を加えないかぎり、周囲の人は「そっちにいくと、考え方がだんだん閉鎖的になっていくおそれがありますよ」とか「ひとつの教えにコミットしてもいいけど、ほかの考え方にも耳を傾ける姿勢を持ってほしい」などと、助言するに留めておくべきだろう。

 マルクスの言っているように、信仰により、閉鎖された集団に閉じこもってしまう(逃げ込む)のは現実の悲惨の表現であり、それ自体も悲惨なのです。いわば二重の悲惨、という複雑な構図になっているから、阿片を求める心性を単純に批判することはできません。法的な実害がない限り、信仰の拠り所となるものを奪ってはならないのです。

 閉鎖的な集団内での信仰が、社会的には受け入れがたいものであっても、集団内だけにとどまり、外部との接触が、強引な布教などの実害が発生する事態、にならなければ、それを妨害してはならない、が、助言を発信することは可能だ、という仲正の述べていることは正当です。

 今、問題視すべきは、信仰もしていないのに、教会にかかわりを持ち、ただ信仰を利用しようとして群がる人たちです。このような人たちの存在が、宗教を陳腐なものへと導いています。つまり、信者は、信仰によって私的な利益を得ますが、そこに群がる人たちは、信者の信頼を得ることで、社会的な利益を望みます。

テロの連鎖の回避のために 3

 前回、統一教会の教義らしきものについて触れましたが、これは仲正が信者であった当時のものであろうし、その後、批判を受けなどして、路線変更などはあったろう、とは思いますが、興味がないので、調べていません。変えようのない資質のようなものを列挙したつもりです。

 布教などの活動はどのようなものなのか、それも分かりませんが、信者がいるのはもちろん、新たに入信する人だっているでしょう。そこを居場所として、逃げ込むかのようにして、です。

 なぜでしょうか。

 マルクスの有名な「宗教は民衆の阿片」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)という宗教批判の言葉があります。そこでは、不幸から宗教に救いを求めざるを得ない現状を批判しています。中山元訳の光文社古典新訳文庫(訳者による、三百頁近い解説だけでも読む価値あり、です)の一六一~三頁を参照しましょう。

 「宗教を否定する批判において基本となる考え方は、宗教が人間をつくるのではなく、人間が宗教をつくるのであるということにある」。当たり前のことなのですが、宗教にとらわれてしまっている人たちは、このように考える冷静さを失ってしまい、宗教あっての私、になりがちです。では、「人間が宗教をつくる」とは、どういうことなのでしょうか。

 「人間とは、人間の世界のことであり、国家のこと、社会的なありかたのことである。この国家が、社会的なありかたが、顚倒した世界であるために、転倒した世界意識である宗教を生みだすのである」。人間は「社会的なありかた」であって、客体として、ポツンと、あるのではないのです。その社会的である人間が、顚倒した世界を生き延びてゆかなければならないため、宗教のようなものを必要としてしまう人、が一部おり、その求めのゆえ、宗教が生み出され、取り込み、取り込まれる、と言っています。では、なぜ、そのような宗教が必要とされるのでしょうか。

 「宗教はこの世界の一般理論であり、この世界についての百科事典的な概要であり」、「世界の慰めと正当化のための一般的な根拠である。人間の存在が真の現実性をそなえていないために、人間存在が空想のうちで現実化されたものが宗教なのである」。「百科事典的」というのは見事な譬えですね。あえて、顚倒した世界の現実性を認識するのには、勇気と努力が必要ですから、安易な百科事典的な項目(教義)をたよりにして、「空想のうちで現実化」(つまり、自分だけで納得して、それでよし)することで、現実から目を逸らしているだけ、にもかかわらず、空想を正当化してしまう、そういう宗教の働きによって、自身の存在の確信が得られる、とでも言えばよいのでしょうか。

 そこから導き出されたのは、「宗教という悲惨は、現実の悲惨を表現するものであると同時に、現実の悲惨に抗議するものでもある。宗教は圧迫された生き物の溜め息であり、無情な世界における信条であり、精神なき状態の精神なのである。宗教は民衆の阿片なのだ」。例の言葉は、この文脈で使われています。阿片(宗教)に頼らなければならなくなってしまう「現実の悲惨」があり、それを忘れるために、宗教に頼らざるを得ないことになってしまうケースが生じ、という経緯を経ることで、宗教は「現実の悲惨」の「表現」であり、かつ、「抗議」になっている、ということです。注意しておかなければならないのは、(現実逃避の)宗教は阿片なのだから、それ自体も悲惨なものである、という点です。

 つまり、「民衆に幻想のうちだけの幸福感を与える宗教を廃棄するということは、民衆に現実の幸福を与えることを要求するこであ」り、「幻想を必要とするような状況を廃棄することを要求することである」、ということです。わかりやすく、もっともだと、うなずけます。これは、現在でも、実現を目指さなければならない要求なのです。

 宗教に酔ったままではいけないのです。「そのために歴史に奉仕すべき哲学の第一の課題は、[宗教という]聖なる姿をとっているものが実は人間の自己疎外にほかならないことが明らかにすること、そしてさらに、人間の自己疎外が聖ならざる姿をとっていることを暴露することにある。このようにして天国の批判は地上の批判へと移行し、宗教の批判は法のへと移行し、神学の批判は政治への批判へと移行するのである」。

 "自己疎外"、難しい用語なのであまり使いたくありませんが、本文にあるので、仕方ありません。厳密ではありませんが、ある目的があって、それを実現しようとするのですが、いつの間にか、本来の目的が忘れられてしまい、実現のための「手段」が「目的」にすり替わってしまう(自己の手段・道具化)状態、と言っていいと思います。人間の自己疎外である宗教は、悲惨な現実という自己疎外の「聖なる姿」でしかない、ことを強調する必要がある、と言っています。

 人間が自己疎外されてしまう現実の悲惨が、必要なものとして宗教を生みだす、と述べました。そのような流れ、として理解することも可能です。しかし、甘美な幻想をもたらす宗教も自己疎外の「聖なる姿」であるのを忘れてはなりません。自己疎外が「悲惨な現実」と「聖なる姿」となって表現されているのであって、そこに因果関係を求めるべきではありません(悲惨な現実ゆえに阿片に走るのは稀です)。

 もちろん、現実の悲惨(不幸)は、解消されなければなりません。しかし、生きてゆくうえで、(当人にとって重大な)現実の不幸は、予想不可能ですので、あらかじめ取り除くことは、できません。それと向き合い、対処することで、自己疎外から逃れることができます。同じことは、阿片としての宗教、についても言えます。似非宗教、と言っていいでしょう。怪しげな、サークルとかマルチ商法、といったものもあります、あなたにとって信じたい幻想を与えてくれるのです。そうしたものを求める心性、そういう心性を取り込もうとする空想、を批判することで、現実に向き合い、政治の批判が可能になる、ということでしょう。信じることで救われるならば、公共の福祉に反しないかぎり、認めなければならない、と考えていますが。

 予定では、軽く言及するだけのつもりでしたが、メモの段階で、あれもこれもと広がってしまいまい、このようになってしまいました。次回こそ、仲正の元信者としての見解、についてです。

テロの連鎖の回避のために 2

 統一教会(元、ですが、この呼称を使います)で思い浮かべるのは、歌手の桜田淳子や元新体操選手の山崎浩子が参加していた「合同結婚式」です。会場に多くのウエディングドレスの女性とタキシードの男性がペアで並び、歓喜の声をあげている、異様ともとれる映像を見た、という記憶があります(後付けの記憶かもしれません)。そして、珍味の訪問販売、訪問されたこともありましたが、噂になっていたので、話も聞かずに断っていました。仲正*1によりますと、一袋五〇〇グラムで、大きめのバックに二〇袋以上入れていたそうです。霊感商法なども問題視されていました。要するに、「訳の分からない集団」とだけ認識していて、関心を持っていませんでした。

 では、いかなる教団なのでしょうか。『Nの肖像』を参照しましょう。

 統一教会は、旧約聖書の「失楽園」を「堕落論」として解釈している、と述べられており、エバを誘惑した蛇を、神が人類より以前に創造した天使長ルーシェル(ルシファーの韓国語の発音)と解釈しているそうです。

 ルーシェルは、それまで神が創った被造物のなかでもっとも美しい存在であり、神の愛をもっとも強く受けていた。しかし、神の子である人間が創造されたあとは、人間に仕え、人間をとおして神の愛を受けることになっていた。
 人間の出現で、神の愛を奪われるように思ったルーシェルは「愛の減少感」を強く感じ、その減少感を満たすために、神の愛を受けて美しく輝いているように見えたエバを誘惑し、関係を持った。そして、神の戒《いまし》めにそむいて、本来ならば将来自分の夫となるべきアダム以外の存在と関係を持ってしまったエバは不安になり、アダムと――まだその時期ではなかったにもかかわらず――関係を持ってしまった。アダムもまた、エバをとおして間接的に、ルーシェルと交わることになったわけである。
     (略)
 悪魔サタンと化したルーシェルの誘惑に負けて、性的に交わり、心身ともにその影響を受けたことで、アダムとエバは何度も繰り返し罪を犯す体質を身につけた。これが「原罪」である。

 セックスを好み、求めるのは、ルーシェルの誘惑によるもので、それに囚われて、のことなのですね、セックスのたびに原罪を新たに、すごい解釈です。それによるものなのでしょうか、合同結婚式で教祖にマッチングされても、すぐ家庭をもてるのではなく、聖別期間があり、その期間は二人で会うことも困難で、もちろん、祝福された主体者(男性)と相対者(女性)同士以外と性的交渉を持つことはできないそうです。

 「復帰原理」というのは、アダムとエバより罪の血統を継承し、日々罪を犯しつづけている人類をサタンの手から奪いもどすべく、神がさまざまな働きかけをする際の法則を論じたものである。(略)
 通常のキリスト教では、神の子であり、原罪のないイエスが十字架で死んだことによって、人類の罪は基本的にあがなわれたとされている。だが、統一教会の場合、イエスの十字架による救いは「霊だけの救い」であり、不完全だとされる。イエスが殺されることなく、地上に神の王国を建設し、結婚し、子孫を残していれば、救いは完成した。だが、イエスが肉体を失って、信者に霊的に働きかけることしかできなくなったので、不完全であるという。
 人類を完全にサタンの血統から救済し、霊肉における救いを完成するには、再臨のメシアを迎え、メシアによって人類の罪があがなわれ、メシアを中心として地上に神の国が実現されねばならない。

 イエスの十字架での死によって、霊と肉が分離してしまい、霊の次元でのみ罪があがなわれました。信仰のもとでの、霊的なエデンの園、と言っていいでしょう。しかし、それでは、完全な救いにはならなくて、この霊的なエデンの園に、神の働きかけによって、サタンの血統より囚われたままの「肉」が救い出され、霊と結びつき、霊肉として統一した(だから、統一教会?)救いとなる、ということでしょうか。

 また、共産主義をサタンの手先であると位置づけたうえで、「勝共《しょうきょう》理論と呼ばれる理論を体系化し、反共を中心とする政治活動を宗教と結び付けていることも、統一教会の特徴であるといえよう。
 「復帰原理」では、神とサタンの闘争は、哲学・思想の世界でも展開され、神側の思想とサタン側の思想が絶えず対立されてきたとされる。一般的な傾向として、神や例の存在を肯定する唯心論が神側、それを否定する唯物論がサタン側とされている。善悪の思想闘争をとおし、神側もサタン側も次第にバージョンアップしていく。
  (略)
 「勝共」という言い方には、単に共産主義に「反対」するのではなくて、その問題提起の深刻さを受けとめたうえ、それを超える理論を示すことで、思想的に克服させるということが含意《がんい》されているという。

 共産主義唯物論的なエデンの園は、サタンによる原罪にまみれているので、神からの働きかけをたよりにして、本来のエデンの園へ復帰を目指す、ということでしょうか。先の引用にあった、イエスの十字架の死による「霊だけの救い」と考え合わせると……。

 (統一教会は)教会本体のほかに、まず大学内組織である原理研究会があり、学術では世界平和教授アカデミー、政治では国際勝共連合といった組織をを展開している。(略)

 (略)それらの会員になっている知識人やジャーナリスト、そして政治家の多くは信者ではない。彼らの多くは、文教祖の反共主義に共鳴して、大同団結した人々なので、必ずしも宗教的な信仰によって結びついていない。

 ちなみに、仲正は東大の原理研究会に属していました。そして、報道では北朝鮮とのつながり、が語られているようですが、反共主義から路線変更したのでしょうか。文教祖が九一年一一月に金日成と会談をおこなって以来、徐々に、と述べられています。

 (一九九二年に)合同結婚式が話題になると同時に、マスコミが大々的に霊感商法を批判するようになった。報道が過熱するにつれ、勝共連合を支援していた自民党の議員や 大学教員らが、「勝共連合統一教会がつながっているなんて、知らなかった」といって、支援をやめてしまうケースが増えた。

 スキャンダルをおそれて、ですね。若い方はご存じないでしょうけれど、五〇歳以上の人は、統一教会に対して、スキャンダラスな印象を持っている人が多い、のではないでしょうか。にもかかわらず、二〇二一年九月、統一教会系のイベントに、トランプ前米大統領とともに安倍前(当時)首相がビデオメッセージを送りました。これは、その人の影響力の大きさを考えると、周囲を含め軽率(当時も一部で、問題視されていたらしい)ではあったようです。エデンの園への復帰願望、が似ている*2から、かもしれません。

 次回は、元信者としての仲正の見解と、それに触発されたこと、などです。  

*1:昌樹 元統一教会信者として、『Nの肖像 統一教会で過ごした日々の記憶』(双風舎2009)があります

*2:説明不足ですね。現在の社会を荒廃している、と考え、戦前などの価値観を理想化して、復帰を目指す、というノスタルジー、として、です