サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

『月の満ち欠け』をジャケ買い

 京都、先斗町を三条方面へ向かって突き当たり、鴨川方面に向かって歩いた南側、川沿いに、Riversideという輸入レコード店があって、一九八〇年前後で六年ほど、多い時で週一回ぐらい、足しげく訪れていました。窓から鴨川が見えていた、という記憶がありますが、後からの思い込みかもしれません。そしていつだったか、河原町蛸薬師あたりの東側、雑居ビルの狭い通路を通って、三階だったかな、窓のない一室で「どこがリバーサイドなの!」というところへ移転しました。

 足しげく通っていた、とはいっても、暇はあるがお金のない学生だったので、購入するのはせいぜい月に一、二枚くらいなもの、ほとんど一人でジャケット鑑賞に浸っていました。レコードの情報源は「ロッキングオン」と「ミュージックマガジン」、知人に借りて読み込み、レコードを見にリバーサイドへ、ついでにクレジットまで確認、です。あとは一枚につき一秒もしないスピードで、レコードのジャケットのチェック、時々、目に留まるものがあるとじっくり見惚れる、その繰り返しで、一時間ほど過ごしていました。おかげで、「ジャケ買い」の嗅覚がきたえられました(余談ですが、日本酒も高確率の「ジャケ買い」が通用しています)。

 小説の類は、単行本では場所をとるので、また、新書などと違い、タイムリーなものを求めていないので、ほぼ文庫化されてから購入しています。にもかかわらず、佐藤正午作『月の満ち欠け』(岩波書店2017)は「ジャケ買い」してしまいました。また、装画が、ジャケット装画、と表記されているのもうれしい。

 ペーパーバック版も、二〇一九年に直木賞受賞作が「岩波文庫的」に颯爽と登場、発表後二年で岩波文庫は無理だけれど、なんとしても自社から文庫化を、という心意気に惹かれ、手元にあります。岩波文庫なら思想系は青、とか区分けがありますけれど、的ですからそれに従うわけにはいかない、Sという区分けで、グリーンっぽいベージュ(単行本のジャケットのベースカラー)です(静物画家ジョルジョ・モランディ好きの私にとって、大好きな色合いです)。マークの「種をまく人」も五分の一ほど塗り残しで、これも岩波文庫的で、細かい心配りです。

 二冊も所持しているのですが、佐藤正午はお気に入りの作家の一人ですので、まあいいか、という感じです。映画化される(映像鑑賞時は涙もろくなるので、おそらく観ないでしょうけれど)ということで、何度目かの再読をしました。

 内容は「素晴らしい」の一言、さまざまな伏線が配せられ、関連付けられ、見事に回収されてゆく様は、まさに圧巻、とさえ言えそうです。「熟練の業」を堪能できます。

 主人公は人妻瑠璃さんと大学生アキヒコ君(ということにさせていただきます)。二人はささやかな出会いから、不思議な距離感を保ちながらも惹かれ合い(お互いの、相手に対する距離感、が心地よかったのでしょうか)、そして、何となく不倫の関係を持ちます。しかし、不倫という言葉が、まとわりつくような関係になってしまう前に、瑠璃さんは突然の事故死、「試しに死んでみる」、それも「月のような死」を、と語った一週間後に。二人にあった「不倫関係」という「業《ごう》」は、宙ぶらりんになって、どこかに、しこりのように残ったままです。その「業」を昇華させようと、繰り返される「月の満ち欠け」、月が満ちてくると業の雲がかかり、照らして光らせることができません。満ちた月でないと、照らして光らせられないのです。そして、さまざまな伏線が関連付けられ、回路が通じることで業が昇華、雲は霧散し、「瑠璃も玻璃《はり》も照らせば光る」状態への可能性が開かれ、満ちた月の光を受け、照らされた、内なる瑠璃が光り、その存在が神々しく輝きを放つ、めでたしめでたし、という話です。

 思い入れたっぷりですが、内容紹介にさえなっていません。感想文として提出したら、書き直しを命ぜられるでしょう。とりあえず、読んでください、というメッセージであります。

 で、ペーパーバック版を読んだとき、ふと、川端康成の『雪国』を連想しました。文芸評論家のどなたかが、都会からやってきた島村は、トンネルを抜け、雪国という「異界」にやってきて、トンネルを抜けて都会へ帰ってゆく物語だ、と評していたのを思い出し、それが連想させたのでしょう(正確に言えば、『雪国』が思い浮かび、それでなのか、と思い至ったのですが)。異界というか、此岸と彼岸(仏教的な意味合いでなく、こっちとあっちという感じです)で、その境界にトンネルがある、というイメージです。テーマパーク的体験、と言ってもいいかもしれません。旅行では、家を出るところから、いや、準備段階から経験は始まりますが、テーマパークでは、入場口を通過してからが体験の始まりです。

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」、トンネルが入場口で、雪国がテーマパーク、ということですね。島村は、芸者の駒子と過ごした雪国での体験を「雪国」という箱に閉じ込めて、トンネルを抜けて都会へ帰ります。そして、その箱は雪国にやってきて、はじめて開けられるのです。つまり、都会にいるときは、閉じられたままなので、島村には何の影響も及ぼしません。島村は雪国での傍観者でしかなかったのです。

 この、此岸と彼岸、ということで思い浮かんだのでしょう。アキヒコ君のいる此岸と瑠璃さん的な彼岸、と言っても、アキヒコ君は傍観者ではありません。また瑠璃さんの想いに囚われた彼女たちは、アキヒコ君の存在を、大袈裟ですが、聖女が彼岸のイエスの体感を望んだように、求めます。瑠璃さんとアキヒコ君が干渉し合い、様々な経験(体験ではありません)を積み重ね、受け継ぐことで、クライマックスを迎えます。ここが視線の文学である『雪国』との大きな違いです。

 ついでに、「瑠璃も玻璃も照らせば光る」、この言葉に触れると、いまでも、涙が浮かびそうになります。