サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

増補 感想2211その1

2022年11月の読書メーター
読んだ本の数:30冊
読んだページ数:7815ページ
ナイス数:78ナイス

https://bookmeter.com/users/1367150/summary/monthly/2022/11


 ① <責任>の生成ー中動態と当事者研究
ポストフォーディズムでは、欲望を「使い捨て」にするものとして扱われるから、そこには、過去にとらわれた結果である原因、に起因する責任は生じない。一方、過去を重視すると、事態の原因はどこまでもさかのぼれ、無限後退となってしまい、責任は消滅してしまうのいで、それを意志の力で切断して出発点を作り出し、そこから責任を導きだそうとする。この作為性を乗り越えるため、「当事者」というあり方に注目する。責任は過去に由来するものではなく、様々な過去の要因が作用して、今このようにしてある、という当事者という自覚のもとに生成する。そこでは、経験される場としての「私」があることで、自己が生成され続ける、という。
読了日:11月01日 著者:國分功一郎,熊谷晋一郎
https://bookmeter.com/books/16984662

 

 ② 縁食論――孤食と共食のあいだ
孤食や共食ではなく縁食、縁とは、たまたまのめぐりあわせであり、人間の全的でない「ヘリ」「ふち」であるものが並存している場でもある。「たまたまの多様性の出会い」と言ってもいい。その由来を木もれ陽のきらめきで説明している。それは「葉と枝が吸収できない光のおこぼれがもたらす空気の建築である。…ところが私たちの脳内は完全遮断か完全開放かの二者択一にずっと支配されてきた」。ここに、二者択一でない縁による「もれるもの」との出会い素晴らしさが発生する。そして、縁とは物言わぬ死者との出会いでもある、と言う。食べるというのは、死者となった食べ物を食べているのであり、また死者を死者として出会うことによって、思い出と結びつき、それが縁となって、ともに生きてゆく。
読了日:11月01日 著者:藤原辰史
https://bookmeter.com/books/16836922

 

 ③ 見ることと見られること (岩波現代文庫)
見ることと見られることへの、そのプロである高名な映画評論家のエッセイ。見る主体と見られる対象が逆転している場から考察を進められている。視線を意識することで私たちは自身を認識し、自己を形成する。つまり、見られることで主体となるといえる。逆に、見るという行為は見惚れるや見守るなど、対象にとらわれることだから、主体性の放棄に近い。たとえとしてポルノ映画があげられている。かつては映画館へ行き他人の目を意識しながら、上映と同時進行で観ていたが、ビデオでは、他人の目を気にせずに、目的のシーンだけを見ることが可能となった。好みのシーンを選んでいるのだが、映画よりもより強く、対象に支配されることになってしまった。
読了日:11月02日 著者:佐藤 忠男
https://bookmeter.com/books/144883

 

 ④ マルクス・ガブリエル 新時代に生きる「道徳哲学」 (NHK出版新書 645)
自然主義は現象などを量的に処理するものでしかなく、そこでは、経験の質は抜け落ちてしまう。だが、質は積み重ねることで量として変換可能であるが、量を積み重ねるだけでは質は生じない。そこで、質の優位が説かれ、そこから道徳を再生させす道を選択する。ガダマーの言葉を引用し、「相手の観点を感性も含めて考慮する必要があ」り「相手の立場からどう見えるか」を重視すべきと主張する。コロナウイルスパンデミックでの私たちのウイルスへの対応にも、その主張を関連させている。ウイルスの性質が明らかになった状態では、ウイルスの側から私たちをみるという想定を持つ必要がある。両者とも自然の中に統合させられて「ある」のだから。
読了日:11月03日 著者:丸山 俊一,NHK「欲望の時代の哲学」制作班
https://bookmeter.com/books/17479364

 

 ⑤ 暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
大衆社会の成立で、暇が有意であった貴族ではないブルジョアは、暇を生きるすべを知らないのに暇があたえられ、その解消のため、欲望がかき立てられる、終わりのない消費によって、退屈から出ようとする。快原則によれば、快は興奮状態の減少、不快は興奮量の増大になるが、人間は「快」の状態を退屈と感じてしまうことによるためだ、と言う。性行為を例にあげると、性衝動によって興奮量は増大し、その解消のため、性行為による快楽を享受することで、快=安定を得る。しかしそれは退屈につながるので、あえて不快な性衝動を引き寄せるてしまう「消費としての性」となってしまう。対象を享受して満足を得る「浪費」、それが記号や観念にすり替えてしまっての「消費ゲーム」に変換されてしまう。
読了日:11月05日 著者:國分 功一郎
https://bookmeter.com/books/9498071

 

 ⑥ 本当に君は総理大臣になれないのか (講談社現代新書)
政治家を飴玉をくれる相手としてしか見ないから、政治家は飴玉を与えることに努める。だから有権者は地盤・看板・カバンを基準に、より多く与えてくれる有力者を政治家として選ぶ。著者にはその現状への不信がまずあり、その円環を拒むことを自身の政治スタンスにしている。現在、日本の政治では、ますます国会が機能しなくなってきており閉塞感に満ちている。それを打破するために、政府と与党による事前審査制度を廃止し、「国会を実質化する必要があ」り、政権公約は「国民と政治家が信頼強度を高め」共有できるものにしてゆく、と語る。利害を異にするものも含めての対話によって共有できることを見つける、いうなればその共有されることのみが政治の領域。
読了日:11月06日 著者:小川 淳也,中原 一歩
https://bookmeter.com/books/18109147