テロの連鎖の回避のために 5
安倍元首相への銃撃事件は、ある特定の宗教団体への個人的恨み、による犯行であるので、テロではありません。しかし、容疑者がそのような宗教をのさばらしたまま、放置していた政治や、身内の信仰によりもたらされた不幸をもって、社会から見捨てられたなどと、反感が「社会」に向かってしまえば、テロにつながります。そうです、この事件は、テロ一歩手間の事件なのです。それを防ぐためには、セーフティーネット、なのでしょうが、それに関しては触れません。今まで述べてきたことから考えてゆきたい、と思います。
まずは、マルクスの「宗教は民衆の阿片」という言葉です。ここでの現実の悲惨は、経済的要因、つまり、貧困という社会問題だけに焦点があります。しかし、信仰へと向かってしまうのは、個人の人生において遭遇する不幸や不安、からの救済を求めて、のものではないでしょうか。貧困による不安は、いまのところ自己申告やハードルの高さ、といった問題はありますが、社会問題として、解消可能です。
しかし、個人の問題、例えば、災害や事故によって突然大切な人を失って、心が弱っているときに親身になってくれて、「これを信じれば救われますよ」と言われれば、いかに怪しいものであれ、信じてしまうかもしれません。救済としての宗教の役割、ですね。
この場合、信仰をすすめた側は、救済よりも布教、という意識が大きのではないでしょうか。困っている人よりも、教団の利益が優先が無意識にある、と感じます。
本来なら(ある種の)人は、救済を求めて信仰に入り、それによって不幸・不安が癒され、そしてそれで卒業になる、はずです。しかし、そのありがたさへの感謝のために信仰を続け、信仰がアイデンティティであるという状態になります。そうなれば、信仰の度合いの(自己)評価、のみを課題とするようになり、信仰は、教団への貢献、として表現されるものとなるのでしょう。つまり、救済から(布教による)教団の拡大へと信仰のあり方が変わってしまいます。
そのような信仰へ向かう人たちは、各種共同体の安心のネットワークからはじき出された人たちが、その不安から、強い絆を宗教に求める、という仲正の言葉を引用しました。このような人は、元来、ある特定の共同体に強い絆を求める傾向がある、のではないでしょうか。そして、その共同体に属する周囲の人たちからは「重ったるく」受け止められ、はじき出されやすくなっている、のかもしれません。多くの人である周囲は、いくら大きな不安におそわれた、としても、阿弥陀仏や極楽浄土、キリスト教の神、ムハンマドはアッラーの預言者(言葉を預かる者)など、とそのまま信じることはできない、と思われます。そしてそのギャップがますますギャップを広げ……。
この意味で、信仰は教祖が見出した真理をそれをそのまま信る、という点で独断論的です。そして、強い絆を守り、それに守られる集団となります。これを富永幸一郎は「外からのスピリチュアルなものの拒絶」(政治のイデオロギーや血の絆といった種族的ナショナリズムに固着することの弊害、に関して述べているのですが)である、と言います。
インスピレーションは、自分の内側から出てくるものではない。それは外から呼び起こされ、与えられるものである。そして、その「霊」は、目には見えないが、個人や共同体をささえる大切な力となる。人間は、個人においても、また集団においても、自分自身のうちに閉じこもり、他者を受け入れなくなると自由をうしない身動きが取れなくなる。息を胸いっぱいに深く吸い込むこと、生命がそれによってよみがえるように、スピリットは集団・共同体においても、その勇気てな活動のフレキシビリティを保持させてくれる。
『スピリチュアルの冒険』(講談社現代新書 2007)
外からくるリアルな何か、をスピリチュアルなものとし、それに対して開かれており、受け止める感性の重要さを指摘しています。そして、そこから、インスピレーションが呼び起こされる、と。
このスピリチュアルなものへの感性ですが、その基盤は、もちろん私自身、であるのだから、その感性を維持するには、自身への気付き、がなければなりません。つまり、自身と折り合いをつける、コミュニケートできる、ことが前提となるはずです。自身への気付き、マインドフルネス、ですね。自身の身体の細部にまで意識しようとするヨガ、というのもあります。マインドフルネスやヨガは、初期仏教に近いとされるテーラワーダ仏教の修行でもあります*1。
その初期仏教には、出家者の生活・修行の場として、サンガ(僧伽)という集団があります。出家者はそこで修業三昧の日々を送り、「悟り」をえようとします。サンガでは出家者の生産活動は否定されているので、交代で托鉢に出て、それによるお布施によって生活しなければなりません。他者に頼って生活するしかない、ということです。生を他者にあずけるのです。まさに他力にすがって生きる、のです。だから、修行を怠ってはならないのです。立派な僧だと尊敬されていなければ、お布施をしてもらうことなどできるはずはありません。
出家者は自分のため(自利)に修行して悟ろう(自力)とします。しかし、生活はお布施(他力)に頼るしかありません。お布施を行う側は、(自力によって)手にあるものを布施(利他)します。そして布施をすることは、自力修行されている立派な僧の、功徳の「おすそ分け」あずかる(自利)ことになるでしょう。自力修行をしている出家者は、お布施を与えるものに「功徳」をもたらします(利他)。阿弥陀仏の他力にすがり極楽浄土へ、という親鸞の教えの、始原のような教えがここにあります。
このサンガのような場が、必要とされている、と感じます。自身が危険な状態に陥りつつある、という自覚を持てることが前提ですが、そのような状態になったとき、出家者として、のように受け入れてくれる組織です。出家ですから、性的な事柄・エンターテイメント・楽しみとしての衣と飲食は禁じられなければなりません。そこで、喪(といってもいいでしょう)の作業を行い、卒業を目指し、社会復帰に備えるのです。心が弱るのは個人問題ですから、マニュアル的解決はありません。自力で喪の作業が行える場が必要なのです。
しかし、遊行聖や鎌倉新仏教、にさかのぼるまでもなく、高度成長期の金の卵たちの不安の受け皿、としての創価学会について、島田裕巳の論を紹介しました。それは今でも変わらないのです。不安や不幸などの苦の有効な受け皿は、新宗教になってしまう、という現実を忘れてはなりません。
今回、ブログ名を変更します。”サンガの寅さん”、サンガは上に述べたもので、寅さんは、もちろん「フーテンの寅さん」です。キーワードは出家、出家とは、佐々木閑が言っている「自ら望んで、ある生き方(生きがい)を選んだのなら、今の日常の一部を断念する必要がある」*2という意味合いです。