サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

テロの連鎖の回避のために 3

 前回、統一教会の教義らしきものについて触れましたが、これは仲正が信者であった当時のものであろうし、その後、批判を受けなどして、路線変更などはあったろう、とは思いますが、興味がないので、調べていません。変えようのない資質のようなものを列挙したつもりです。

 布教などの活動はどのようなものなのか、それも分かりませんが、信者がいるのはもちろん、新たに入信する人だっているでしょう。そこを居場所として、逃げ込むかのようにして、です。

 なぜでしょうか。

 マルクスの有名な「宗教は民衆の阿片」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)という宗教批判の言葉があります。そこでは、不幸から宗教に救いを求めざるを得ない現状を批判しています。中山元訳の光文社古典新訳文庫(訳者による、三百頁近い解説だけでも読む価値あり、です)の一六一~三頁を参照しましょう。

 「宗教を否定する批判において基本となる考え方は、宗教が人間をつくるのではなく、人間が宗教をつくるのであるということにある」。当たり前のことなのですが、宗教にとらわれてしまっている人たちは、このように考える冷静さを失ってしまい、宗教あっての私、になりがちです。では、「人間が宗教をつくる」とは、どういうことなのでしょうか。

 「人間とは、人間の世界のことであり、国家のこと、社会的なありかたのことである。この国家が、社会的なありかたが、顚倒した世界であるために、転倒した世界意識である宗教を生みだすのである」。人間は「社会的なありかた」であって、客体として、ポツンと、あるのではないのです。その社会的である人間が、顚倒した世界を生き延びてゆかなければならないため、宗教のようなものを必要としてしまう人、が一部おり、その求めのゆえ、宗教が生み出され、取り込み、取り込まれる、と言っています。では、なぜ、そのような宗教が必要とされるのでしょうか。

 「宗教はこの世界の一般理論であり、この世界についての百科事典的な概要であり」、「世界の慰めと正当化のための一般的な根拠である。人間の存在が真の現実性をそなえていないために、人間存在が空想のうちで現実化されたものが宗教なのである」。「百科事典的」というのは見事な譬えですね。あえて、顚倒した世界の現実性を認識するのには、勇気と努力が必要ですから、安易な百科事典的な項目(教義)をたよりにして、「空想のうちで現実化」(つまり、自分だけで納得して、それでよし)することで、現実から目を逸らしているだけ、にもかかわらず、空想を正当化してしまう、そういう宗教の働きによって、自身の存在の確信が得られる、とでも言えばよいのでしょうか。

 そこから導き出されたのは、「宗教という悲惨は、現実の悲惨を表現するものであると同時に、現実の悲惨に抗議するものでもある。宗教は圧迫された生き物の溜め息であり、無情な世界における信条であり、精神なき状態の精神なのである。宗教は民衆の阿片なのだ」。例の言葉は、この文脈で使われています。阿片(宗教)に頼らなければならなくなってしまう「現実の悲惨」があり、それを忘れるために、宗教に頼らざるを得ないことになってしまうケースが生じ、という経緯を経ることで、宗教は「現実の悲惨」の「表現」であり、かつ、「抗議」になっている、ということです。注意しておかなければならないのは、(現実逃避の)宗教は阿片なのだから、それ自体も悲惨なものである、という点です。

 つまり、「民衆に幻想のうちだけの幸福感を与える宗教を廃棄するということは、民衆に現実の幸福を与えることを要求するこであ」り、「幻想を必要とするような状況を廃棄することを要求することである」、ということです。わかりやすく、もっともだと、うなずけます。これは、現在でも、実現を目指さなければならない要求なのです。

 宗教に酔ったままではいけないのです。「そのために歴史に奉仕すべき哲学の第一の課題は、[宗教という]聖なる姿をとっているものが実は人間の自己疎外にほかならないことが明らかにすること、そしてさらに、人間の自己疎外が聖ならざる姿をとっていることを暴露することにある。このようにして天国の批判は地上の批判へと移行し、宗教の批判は法のへと移行し、神学の批判は政治への批判へと移行するのである」。

 "自己疎外"、難しい用語なのであまり使いたくありませんが、本文にあるので、仕方ありません。厳密ではありませんが、ある目的があって、それを実現しようとするのですが、いつの間にか、本来の目的が忘れられてしまい、実現のための「手段」が「目的」にすり替わってしまう(自己の手段・道具化)状態、と言っていいと思います。人間の自己疎外である宗教は、悲惨な現実という自己疎外の「聖なる姿」でしかない、ことを強調する必要がある、と言っています。

 人間が自己疎外されてしまう現実の悲惨が、必要なものとして宗教を生みだす、と述べました。そのような流れ、として理解することも可能です。しかし、甘美な幻想をもたらす宗教も自己疎外の「聖なる姿」であるのを忘れてはなりません。自己疎外が「悲惨な現実」と「聖なる姿」となって表現されているのであって、そこに因果関係を求めるべきではありません(悲惨な現実ゆえに阿片に走るのは稀です)。

 もちろん、現実の悲惨(不幸)は、解消されなければなりません。しかし、生きてゆくうえで、(当人にとって重大な)現実の不幸は、予想不可能ですので、あらかじめ取り除くことは、できません。それと向き合い、対処することで、自己疎外から逃れることができます。同じことは、阿片としての宗教、についても言えます。似非宗教、と言っていいでしょう。怪しげな、サークルとかマルチ商法、といったものもあります、あなたにとって信じたい幻想を与えてくれるのです。そうしたものを求める心性、そういう心性を取り込もうとする空想、を批判することで、現実に向き合い、政治の批判が可能になる、ということでしょう。信じることで救われるならば、公共の福祉に反しないかぎり、認めなければならない、と考えていますが。

 予定では、軽く言及するだけのつもりでしたが、メモの段階で、あれもこれもと広がってしまいまい、このようになってしまいました。次回こそ、仲正の元信者としての見解、についてです。