サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

テロの連鎖の回避のために 4

 人権として尊重されなければならないものに、「愚行権」というのがあります。周囲からみれば、愚かであり、過ちであると思われるような行為であっても、他者に危害を与えたり、公共の福祉に反しない限り、邪魔されない自由、という権利です。これは、社会通念として、賢明だとか正しいことだとして、それを強制されることはあってはならない、ためにも必要とされるものです。

 飲酒を例にしましょう(軽度のアルコール依存症でありますので、実感を持ちやすい)。飲酒は、人間関係を円滑にする効果もありますが、量が増えてしまうと、愚行になってしまう要素ばかり、が目立ってきます。本人としては、酔っぱらて「快」の状態になること、を求めているだけなのですが。

 たしかに、酔っぱらいは面倒くさい存在です。自身を省みて、思い当たる(我ながら情けない)ことは多々ありますし、身体(健康)にも負担をかけてしまいます。まさに愚行でしかありません。それだけでなく、酔っぱらって、他へ危害を与えてしまう場合、もあるでしょう。しかし、それは、他へ危害を与えるのがダメなのであって、酔っぱらっているかどうか、は問題ではないのです。一方、飲酒運転がダメなのは、飲酒も運転も禁じられたものではないのですが、飲酒しての運転となると、運転は危険物を扱っているのと同じですから(だから、免許が必要)、判断力の鈍った状態で運転するのは、公共の福祉に反することになるので、権力によって禁じられているのです。もちろん、愚かである、というだけで禁じている、のではありません。

 では、なぜ、愚行権を抑圧してはならないのでしょうか。「多数者の専制」につながってしまうからです。多数者の専制、多数派が少数派を抑圧・無視してしまうこと、を言います。そこには、「話し合いで最低限の合意を」というプロセスは、ありません。

 多数である、ということだけ、が正当であることの根拠となり、「多数であるから正しいのだ」、という思い込みになってしまいます。そこでは、多数の少数(の意見)は愚行と同等、とされてしまいます。そして、民主主義は「多数者の専制」に陥りやすい、と言われています。だから、憲法によって、多数から少数(の権利)を守らなければならない、のです。よく憲法は国家権力に制限を与えるもの、と言われていますが、述べてきた視点の方が重要、と感じています。

 では、本題です。仲正は元信者として、信仰(者)について述べています。

 家族や友人、恋人、学校、職場、サークル、地域、政党そして国家などの各種共同体は、なんらかのかたちで、実在性を証明できないものにもとづく精神的な絆を提供し、各個人を安心させているのだと思う。
 その安心のネットワークから、何かのきっかけではじき出された人たちは、従来自分が属していた集団のそれとは違う――したがって周囲から奇異に見える――かたちで、「形而上学的なもの」にみずからの精神的基盤を求めるようになる。はじき出された人たちが集まって、(従来は見られなかったようなタイプの)霊的絆を基盤とする共同体をあらたに構築しはじめると、第三者的には、それが理解しがたい「宗教」に見えるのではないだろうか。

 生まれた時点で、将来がほぼ決まっていたような時代では、共同体とのつながりは強固でしたが、近代以降、共同体の拘束を解かれた個人の自由、が可能になってしまうと、共同体とのつながりは、「たまたま」というような、いわば場当たり的なもので、絆が弱くなってしまいました。いつ、そこから、はじき出されても不思議ではないのです。そして、当人にとって重要な精神的絆からはじき出されると、新たな絆(精神的基盤)を求めて、「霊的な絆を基盤とする共同体」、つまり、宗教を構築する、と述べています。だがそれは、共同体から裏切られ、絆を見失い、絶望して、のことですから、求めるのは、「強い絆」を与えてくれる共同体、になります。

 その中にある人たちの価値観というのは、

 しかし、統一教会の信者にとっては、信仰によって魂の安心をえられることや、自分の信仰が真の父母さまやその代理であるアベルならびに兄弟姉妹たちから認められること、そして自分の居場所があるということが利益なのだ。
 他人にはすごくいびつに見えても、本人たちにとっては、それが十分に多きな利益になっているのである。

 だとしています。目的は「魂の安心」や「自分の居場所」にあるのですが、それには、協会内での評価が重要になるのでしょう。狂信と呼ばれてもよいくらいの信心と教会への貢献の際限のないエスカレート、へと走ってしまいます。

 しかし、その集団は、他人からみると明らかに「異常」なのです。

 私がいうのも変だが、特定の思想や哲学、教理を共有する閉鎖された集団に閉じこもって、”純粋な絆”や”真の絆”を追及するのは、あまり健全なことではない。閉鎖集団のなかで、”純粋な絆”を求めつづけると、どんどんまわりの世界から遊離して、その集団の中でしか通用しえない、特異な教理に帰依しようとする傾向が強まっていく。

 と、その不健全さを指摘しますが、頭から否定してはならない、とも言います。

 その人が、社会のルールや法律からはみ出した行為を具体的にとらないかぎり、その信仰あるいは信条にもとづく生活を営むことが、妨害されてはならない。具体的に他人に危害を加えないかぎり、周囲の人は「そっちにいくと、考え方がだんだん閉鎖的になっていくおそれがありますよ」とか「ひとつの教えにコミットしてもいいけど、ほかの考え方にも耳を傾ける姿勢を持ってほしい」などと、助言するに留めておくべきだろう。

 マルクスの言っているように、信仰により、閉鎖された集団に閉じこもってしまう(逃げ込む)のは現実の悲惨の表現であり、それ自体も悲惨なのです。いわば二重の悲惨、という複雑な構図になっているから、阿片を求める心性を単純に批判することはできません。法的な実害がない限り、信仰の拠り所となるものを奪ってはならないのです。

 閉鎖的な集団内での信仰が、社会的には受け入れがたいものであっても、集団内だけにとどまり、外部との接触が、強引な布教などの実害が発生する事態、にならなければ、それを妨害してはならない、が、助言を発信することは可能だ、という仲正の述べていることは正当です。

 今、問題視すべきは、信仰もしていないのに、教会にかかわりを持ち、ただ信仰を利用しようとして群がる人たちです。このような人たちの存在が、宗教を陳腐なものへと導いています。つまり、信者は、信仰によって私的な利益を得ますが、そこに群がる人たちは、信者の信頼を得ることで、社会的な利益を望みます。