サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

ジェンダーギャップと伝統

 日本の「ジェンダーギャップ指数」は相変わらず、低迷したままです。それは内閣府が「男女共同参画社会」を目指すために立ち上げた、内閣府男女共同参画局」なる呼称、からも見て取れます。「男女共同参画」、なんともぼやけた表現です。「男女対等社会」や「男女平等社会」の実現を、と単純に明言すればよいものを、それには抵抗感があって、「男女共同参画」という、わかりづらい表現にして、かつ、当該部局の主導で行いたい、のような感じを受けます。

 その「ジェンダーギャップ指数」は、数値化で評価されるのですから、カタチだけ、を問うものです。ここが重要なのですが、いきなり、認識を変えるのは困難なので、まずは、カタチを整備してゆくこと、から始めなくてはならないのです。これは指数であって、目標ではないのです。重要なのは、各人の認識を改めてゆくこと、にあるのですから、それを可能にする土壌、が必要になり、それのための指標なのです。数値化されやすい指標ですので、真剣に取り組めば、たやすく指数を高めること、ができるはずです。それができないのは、そのような社会への抵抗感、があるからなのでしょう。

 なぜでしょうか。中心と周縁、というとらえ方がありますよね。「中心と周縁」は固定的なものではなく、周縁の側から見れば、こちらが中心、になってしまうのですが、ある価値基準に従って、女性を周縁的なもの(周縁的なものを女性)に固定してしまうこと、を判断の根拠としている、という姿勢があります。

 そして、「創られた伝統」のイデオロギー化、があります。保守派の大事にしている「家族」を例にあげます。明治八(一八七五)年に、平民も氏(苗字)の使用が義務化され、明治三一(一八九八)年には、夫婦同氏制(夫婦でともに同一の家の氏を称する)が成立することで、親・子・孫などで戸(籍)としての「家(族)」が成立したのですが、これが、(創られた)伝統的な「家族」です。伝統的とされているものの多くは、戦前のイメージの中、にあるのかもしれません。

 あいかわらず、長い前置きで申し訳ありません。ジェンダーギャップを考えるのに「創られた伝統のイデオロギー化」という視点が有効なのでは、と考え、鈴木正崇『女人禁制の人類学 相撲・穢れ・ジェンダー』(法藏館 二〇二一)を読みました。本旨からすれば些末な事例かもしれませんが、三つの興味ぶかい事例、の紹介がありました。

 まず、小林奈央子の論文『女人禁制』よりの引用、として紹介されています。

 ………平成二十六(二〇一四)年九月二十七日に木曾御嶽山が噴火し、死亡者五十八名、行方不明者五名というという戦後最大の火山噴火による大惨事になった。この時の噴火のニュースに対して、あるネットユーザーから「だから女は山に入っちゃいけないんだよ」というコメントが投稿され、多くの人が「いいね」をクリックしていたという。

 このネットユーザーは「山の神」なんて信じていないだろう、とは思います。女神である「山の神」が、自らの領域に立ち入った女性、に嫉妬する、とか、産穢や血穢という「穢れ」を備えてる女性は聖域、にふさわしくない、と怒るのとか、を信じていた上でのコメントならば、そちらの方がおそろしい、のかもしれませんが。

 イデオロギーだけが、その場限りで甦ったのでしょう。 

 また、こんな事例の紹介もありました。

 ………横浜港に停泊させられたくさんの感染者を出したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」では、内部通路に区分のために「清潔」と「不潔」の注意書きが張り出された。この写真がSNS上で拡散して、「不潔」は不適切な表現として非難された。「不潔」の表示は公衆衛生思想に基づくと弁明されたが、姿を変えて現れた現代の穢れであり、穢れは身近で現実のものとなったのである。

 寡聞にして、このようなことがあったとは知りませんでした。感染者が立ち入った場所や触れたところ、は隔離や除菌をしなければなりませんから、この場合の清潔・不潔は、医療業界の用語での「除菌」を基準にした区分けです。しかし、この注意書きは、船内の全ての人に向けられたもの、であろうから、そこに「穢れ」を読み取ってしまう可能性もあります。感染拡大初期では、感染源への接触可能性の高い人たち、が一部で「穢れ」であるかのよう、に見なされていた、というのも事実です。

 最後に、「原子力発電所も女人禁制であった」。これは「エッ、まさか」です。

 東海村プルトニウム加工工場ができた時に、朝日新聞の女性記者・大熊由紀子が立ち入りを拒否された。「刀工だって真正な仕事場には女性を入れない。あれと同じことです」「いったんカマに火を入れたら、発電所の女子従業員でも入れないのです」と言われ、押し問答の末に入ったが、「女を感じさせないように、スラックスをはいて上から下まで黒ずくめの服装で行きました」と報告している。(「原発から刀鍛冶まで 土俵以外にもこんなにある女人禁制の"聖地"」『週刊朝日』一九七八年六月九日号、一五〇頁)

 一九四五年の溝口映画『名刀美女丸』(溝口なりの戦意高揚映画です)では、山田五十鈴(本当に美しい!)演じる刀工の師匠の娘が生霊となって、刀を打っていました(余談ですが、思い出したので、つい)。

 彼らは、原子力発電所も聖域である、と信じていたようです。原子力の神の領域、なのかもしれません。どうやら、ある種の人たちにとって、神は「女人を遠ざける」意志を持つもの、と認識されているようです。それは穢れているから拒まれるのか、拒まれるから穢れているとされている、のかは知りませんが。

 鈴木は、聖域とされている本場所の土俵に、表彰式でそこに一般人が立ち入る、ことを疑問視しています。そうです、相撲関係者であるかどうか、が問題なのであって、女人が問題なのではありません。