サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

他者の苦しみ

 ブログの記事を書くにあたって、まずメモをつくるのですが、その時はいい発想だと思っていたものが、いざ文章にすると「これってどこかで読んだことがある」、という気がすることがよくあります。また、一文そのものがかつて聞いたことそのものであり、記憶がよみがえったものだ、という意識はあるのですが、出典元が思い出せないこともよくあります。

 「他者の苦しみを苦しむ」という言葉もそうです。誰の言葉であったか思い出せないですし、その言葉に触れる機会が度々あったのかもしれません。「他者が苦痛の中にあるということが、私の苦痛になる」ということなのですが、苦痛はできれば味わいたくないものですし、仏教では「苦」(快さえも苦としていますが)からの解放を第一としています。なのに「なぜ」そのような情動にとらわれてしまうのでしょうか。つまり、苦しみは、理不尽であるとか想定できていないような体験をすることで生じます。そのような「苦しみ」にさらされている人たちの経験を感じることはできませんが、理不尽にも、私はその「苦しみ」を体験を経ずして、それを「ある苦しみ」として引き受けて「苦しみ」ます。なぜそのようなことが生じるのか、ずっと考えていました。「良心」や「共感」などのキーワードで説明できそうですが、釈然としません。

 たとえば、ウクライナ情勢がそうです。つい、ニュースや記事に注目しますし、自ら求めもします。無関心でいる方が精神衛生上良いであろうにかかわらず、自らの心が痛むのが分かっている、のにです。

 無関心での平安よりも「苦痛」というリスクに身をさらし、負荷を抱え込むという選択を無意識におこないます。それは「快」なのでしょうか、「昇華」への「自浄作用」なのでしょうか。

 災害や戦争で同じ場にいた多くの人たちが亡くなり、自分は生き残ってしまう。「あの人は亡くなり、私は生き残った。私があの人であったかもしれないのに」。生き残ることは肯定されるべきことなのに、それが苦痛の原因になってしまう、論理的ではありません。私はそのような経験はないのですが、眼の前で、そのようにして人が亡くなる、という経験は、そのように苦しむことによってしか、癒すことができないのかもしれません。

 東日本大震災で、「津波からの避難」を呼びかけていた女性職員が、避難が遅れて亡くなってしまった、という悲惨な事故がありました。逃れることも可能であったろうに、あえて使命を果たされたのだと思います。彼女にとっては日常業務であったのですが、危機的状況にあっては、自らの避難のことも考えておられた、とは思います。ではなぜ?人命至上主義より大事な守るべき、個をこえた「いのち」を守りたいがゆえ、自らが被害に遭うことを考えるより、それに突き動かされておられたのだと考えています。そしてこのような事故は、いくら環境を整備しても、人間が「他者の苦しみを苦し」んでしまう存在である限り、無くならないでしょう。

 と、そのようなことを考えていたら、ふと、ジグムント・フロイドよる「エロスとタナトス」が頭をよぎりました。エロスとは生きることや快などの生の本能で、タナトスとは「死の欲動」と訳されています。エロスは説明不要でしょう。タナトスとは、生命は無機質から生じたもので、それはただ「ある」というだけですから、安定した状態にあり、その状況(死)への志向、をいいます。「生きる」ということは不安定な状態であり、ストレスを常に受けている、とされており、そこからの解放を求めるのです。「母胎回帰願望」と言えば分かりやすいかもしれません。それでも、いきなりタナトスに支配されてはいけないので、エロスに従い一時的な「快」を得ることで、ストレスから解放される、と説明されていた、と記憶しています。

 そのエロスなんですが、連想されるのはセックスですよね。多くのリビドー(性的欲望)だけに従った、自己中心的な(自らの生理的現象としての快しか考えない)セックスではなく、エロスに従うセックスです。どの段階からをセックスと言うのかも問題ですが、その行為において生じたエロスに従うセックスです。分かりにくいですね。普段は隠している身体部位を露出し、相手に自らを「さらしてゆだねる」、という危険を冒した場で生じてくる、「何か」に従う(囚われる)ことで得られるセックスでの快、と言えばいいのでしょうか。うまく説明できません。

 エロスにしてもタナトスにしても、それは私に属しているものではありません。様々な形を持ってあらわれ、私を拘束する欲動です。そしてエロスは危険=苦痛というタナトス的要因を経ることで実現する、といえます。分子生物学の知見によると、「性の発生が死を運命付けるようになった」とされてもいます。

 「他者の苦しみ」について話を戻します。先に述べましたように「他者の苦しみは他者の経験」でしかありません。しかし、私たちは苦しみに「感染」しやすいとしか考えられません。まるで、「苦しみ」という大いなる「いのち」に、さらされ囚われているか、のように……です。また、「生きること自体がストレス」だとも述べました。そして、苦しむこともストレスです。ということは、苦しむことで生きていることを実現(実感)しているのかもしれません。
 そして、エロス(セックス)では相手に身をゆだねる、というある意味の危機=苦を経ることで快を手に入れます。それは「苦しむ」も同じだと思います。ある経験が「苦」として受け止められ、悲嘆にくれ、そしてやがて、苦しみはじめます。そこから逃れたい、という意思があるから苦しいのかもしれません。「苦」からの解放を願います。私たちは伝聞にしろ、人がそのような状態にあることを知ると、心が傷つきその人がそこから解放されるよう祈るでしょう。その状況が解消されれば、苦は昇華され、苦しんでいた人たちには歓び=快が訪れます。「苦しむ」のは願いであり、祈りであるのかもしれません。希望がなければならない、ということです。