サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

存在しない女たち

 手に取っていなかった『存在しない女たち 男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く』(キャロライン・クリアド=ペレス 神崎朗子訳 河出書房新社 2020)を読みました。というより、飛ばし読みです。フェミニズムの良い面と悪い面が表れている、という印象を持ちました。

 フェミニズムとは「この社会では男性が基準《デフォルト》になっており、さまざまな面で女性が生きにくい社会構造になっている」ことを明らかにし、社会から女性は女性として配慮されねばならず、性差を超えて共存してゆける社会の実現への過程、としての意義があると考えています。不利を被っているのだ、という問題提起です。このことを本書でも強調されています。しかし、以下の引用には疑問を持ちました。

 ……最近のブラジルでの調査では、女性の3分の2は移動中に性的ハラスメントや性的暴行の被害を受けた経験があり、その半数は公共交通機関でのできごとだった。いっぽう、男性でそのような被害を受けたのは18%にすぎない。したがって、セクハラや暴行をしたこともなければ、目撃したこともない男性たちはそんなことが起きていることさえ知らなかった。     (70頁)

 女性は理不尽な性的関心にさらされていて、プライベートな面で、「男性と対する」恐怖まではいかなくとも、不安を持っている、と言っていいでしょう。いつ性的被害を受けるかもしれない、ということが常に頭の片隅にあるのだと思います(男性であるので断言できません)。その意味で女性の性的被害について声をあげるのは理解できます。

 しかし引用中にあるように、67%の女性と18%の男性が性的被害にあっている、と述べています。約五人に一人の男性が性的被害を受けているのに、「18%にすぎない」で済まされてしまっています。統計として女性が多いのは明白ですが、被害をいう時には統計よりも、個人が問題なのです。こういう問題意識は「男性的」論理によるものではありませんか。いうまでもなく、性的被害を受けた男性は、女性と同じく性的対象として見做されているのですから、性的被害としての問題としなければいけないのに、それをフェミニズム的、へとすり替えています。

 そして、セクハラや暴行をしたこともなければ、目撃したこともない男性、なんて存在するのでしょうか。いるとすれば、そういう自覚が欠如しているだけだと思うのですが……。ちなみに私は、すべての女性は何らかの「性的被害」の経験がある、と思っています。たぶん女性への性的関心が強いからでしょう。

 本書には、これをフェミニズム的な問題として扱うのは、少し強引すぎるのでは、という例が多くあります。ひとつだけ例を拾うと、2014年のシエラレオネエボラ出血熱が発生した時など、〈女性たちがケア労働をを担っていることも、パンデミック時には致命的な結果を招きやすい〉、としています。今回の新型コロナ禍でのパンデミックで明らかになったように、「ケア労働の軽視」が問題なのです。

 しかし、重要な告発もあります。

 女性はヒステリックで、頭がおかしく、非理性的で、きわめて感情的な生き物、と決めつけられていたり、スティーヴン・ホーキンスが女性は「ミステリー」、フロイドは「人類史はじまって以来、人びとは女性性という謎に立ち向かってきた」と語ったと言います。これには、ただデフォルトである男性からみて、という但し書きが必要です。 

 また、「感情的」とは「喜ぶ時は笑顔になり、悲しい時には泣く」という正統な反応が基本となります(女性はその射程範囲が広いのかもしれせん)。善きことは増殖させ、悪しきことは解消される、という浄化作用と言ってもいいでしょう。しかし、それが否定されれば負の反応を示してしまいます。私たち男性は不幸にも、それを制御することに価値を認めてしまいがちです。

 月経前症候群への研究助成金の申請は、「それは存在しない」として却下されてしまう一方、ED治療薬には様々な治療薬がある、と指摘します。ED治療薬への助成金があるかは知りませんが、緊急性がないにもかかわらず、高価でも需要があるのに対して、月経前症候群は、「存在しない」という不可視なものにされてしまっています。

 その「不可視」ですが、女性の体が不可視性のもとにある、と言います。〈医学、テクノロジー、建築などのデザインや設計において、女性の体の特徴を考慮してこなかった〉と指摘します。スポーツはその顕著な例であります(まさしく体を使うのだから)。全てといっていいくらい、スポーツは男性の身体能力を基準に設計されています。女性がそれで優れたパフォーマンスを実現するのには、無理が生じ、身体活動として不自然であるといえます。

 訳者である神崎朗子は基準にデフォルト、とルビをつけています。defaultとは、初期設定などの意味でよく使われています。パソコンなどの購入時の接続やメール設定だけをした状態ですね。何らかの目的をもって使用するには、そのままでは不便ですので、設定する必要があります。そして、辞書で調べると、まず「不履行」という日本語訳が出ています。約束などを実行しないことです。目的を機能させていないのです。約束をしただけの状態ですね。約束は実行者にとって負担となりますし、可能性に限界を与えます。これが初期設定・基準で、不都合は必ず発生します。それを方向付け、有意な可能性へと設定しなければいけません。