サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

男性で性自認一致で、異性愛者

性的志向では、主体側に二つの性、対象も二つの性の四通り(バイセクシュアルを含むと六通り)のパターンがあります。

私は、といえば、男性で性自認が一致していて、女性を性対象としている、大雑把にいってしまうとこれが私のセクシュアリティになります。なんとも陳腐なものです。異性愛者でアバウトに性自認が一致していて、今の世の中でも、規範の多くは男性の立場から設計されており、それが支配的です。ということは、スタンダードであり、優位な立場にあることになります。それでも、言い換えれば以下のような限界がある、ということになります。
  男性であるので、女性であることを実感できない。
  性自認が一致しているので、一致していない人たちのことを理解できない。
  女性にしか性的魅力を感じないので、それを男性に感じる感覚がわからない。

ことさらに取り上げると、窮屈なものですね。どうしても「なぜ」がつきまといます。たとえば、生物学的性差は生まれつきのものだから、生物学的性差として、ただそうあるだけです。ではなぜ、その存在の要因が生物学的なものだけでないのにもかかわらず、私たちは、それを当然のものとして受け入れられ違和感を感じないでいられたり、違和感を持ってしまうのでしょうか。なぜ異性を、同性を性的対象とするのか可能なのに、私は女性に性的魅力を感じ、男性にはそのような関心を持っていないのでしょうか。それは「先入観」や「すりこみ」にすぎないのでしょうか。また、異質なものを好むのか同質なものを好むのか、ということなのでしょうか。これらは説明できるようなことでないかもしれません。そうならば、「それはそうなんだから、なにか?」という面であらゆるセクシュアリティは同じ地位にあるといえます。

くわえて言うなら、男女のセックスでは子供が産まれますが、それを一般化してはいけません。必ずしも懐妊のためにセックスをしているのではないのだから。

私は男性であることは別にしても、異性愛者なのでマジョリティと定義されている領分に属していると言えます。でも、それを客観的に自覚できていません。そもそも「自分はマジョリティである」とは実感できるものなのでしょうか。私的な行為に関して、それでもなお「マジョリティである」と自己規定するのは、「マッチョ的」であるといえるかもしれません。 

私は「女性とセックスする」ことのみを望むマジョリティである。「女性とセックスする」?女性って一般名詞でしょう?特定の人とセックスしているだけです(若いころは自分の欲望に手いっぱいで、セックス相手を「女性」としてしか見ていなかったのかもしれない)。性行為とは、そのたびにリセットされ、はじめ直さなければならなく、一人一人、一回一回の具体的でマイナーな、不安がどこかに紛れている行為なのです。

余談になりますが、考えるまでもなく、同性は自分と近しい存在なので分かりやすく、異性はそのあり方を実感できず接近困難な存在です。それでもなお、なぜ異性を(性的)パートナーとするのでしょうか。肉体的快楽や、円滑なコミュニケーションを求めるなら同性の方が適しているのかもしれません。

そして、セクシュアリティという特殊なものは、「私」にとっての自分事でしかありませんが、無意識にもそれを基準にしがちです。生殖を前提としている、との誤解もあり、それが性的マイノリティと呼ばれる現象につながります。

公的として言えるのは、私は男性だから、レズビアンにはかかわることができません。また異性愛者だから、ゲイについて理解できませんし、しようとさえ思いません。ただ、そういう「あり方」もあってもいい、と認めることでしかかかわることができません。と、上から目線のような結論になりました。