サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

バイセクシュアルとアイデンティティ

  以前、拙ブログで「性自認が一致していて異性愛者である」という多数者の自己認識が、たまたまそうであると思い込んでいるだけのものであるかもしれず、そうでなかったかもしれない、という可能性もあるのでは?という趣旨のことを述べました。そこから展開してみた「試論」のようなものを書いてゆきたいと思います。

 性対象を持つとすれば、その対象は同性と異性とがあります(過度にフェティッシュなものは考慮に入れません)。それを私たちは、ホモセクシャルヘテロセクシャルバイセクシャルとして自己に当てはめます。しかしそれは、よくいわれているように近代のものでしかありません。

 森本あんり『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』(新潮選書2020)からの以下の引用を参考にします。

 聖書に旧約と新約を通して、「同性と性交してはならない」という定めがあるのはたしかである。だが、そこで想定されているのは「同性愛」ではなく、「同性間性行為」であり、しかも「異性愛者の行う」同性間異性行為である。聖書は、「同性愛」という事態を知らない。
 「同性愛」が人間の性愛の一形態として認知されるようになったのは、ほんのここ百数十年にすぎない。十九世紀までの長い間、人間はすべて異性愛者として生まれ、異性愛者として存在すると考えられてきた。同性間で行われる性行為は、もっぱら異性愛者があえて行う倒錯行為と見られてきたのである。聖書が禁じているのは、この行為である。異性間でするのが自然な行為であるはずの人が行う同性愛行為なので、不自然と断じられた。
  (91頁)

 同性愛者という認識がなければ、そして異性愛者だけならば、異性愛者を規定できないはずなので、異性愛者との認識もありえないのでは?同性があり、異性があり、性行為があるだけなのでは?とは思いますが、それで断罪されるにしても、愛や特別な嗜好の傾向ではなく、同性間の性行為にすぎなかった行為が、近代以降、同性愛として認識化され、同性愛者として属人化されて偏見の目で見られるようになったと、引用から読み取れます。

 そこから性の対象を、同性または異性または両性としているものとしてのホモ・ヘテロ・バイなどの自己規定が生じてきたのでしょう。アイデンティティですね。私であれば、「男性で異性愛者」というアイデンティティですね。今のところは、これが社会的カーストの上位にあることになっているので、自らのアイデンティティを意識しないで、多くのことをやり過ごせます。しかし女性である場合、多くの場で女性であることを自覚させられてしまいます。同性愛者も社会に通用している規範によって、それと意識させられます。社会によって、問題化のカテゴリーとして各々がそれに向き合わされているのです。これがジェンダー問題の基盤であると考えています。

 しかし、ここであつかっているのはジェンダーでなく、「セクシュアリティ」です。

 言わずもがなですが、ホモ・サピエンス排卵期は隠されており、発情期はないとされていて、「性」は隠れた場所で営まれることが前提となっています。そして「性」に関するイメージに、性的欲望は突き動かされています。隠されたり規制されているからこそ求める、という側面が大きいわけです。本能を見失い性的に倒錯している、といわれる所以ですね。その性的に倒錯しているものが同性を求めたり異性を求め、それを社会的に愛としてカテゴリー化され、属人化しているのです。そして先に述べましたように、個人がアイデンティティとして受け入れ、固定化します。

 いまだに、私たちは「性的に異性を求める」ものである、という社会的刷り込みを持っています。そして、異性に感じず同性に魅力を感じるものは「世間とズレている」と自身が「おかしいのでは」と不安にかられます。では、「異性に性的魅力を感じる」というのは正常なのでしょうか。倒錯した欲望の発現に「正常」というものはあるのでしょうか。倒錯してるにもかかわらず、そこに規範を求められるものなのでしょうか。性行為は同性とも異性とも行うことが可能です。ということは、私たちは可能性としてバイセクシャルなのであり、「バイセクシャルです。表現型はヘテロセクシャルですけれども」となるのかもしれません。