サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

「利他」とは何か 國分功一朗による

 國分は中動態の概念に関心を持ったのは、近代的な主体性を批判していた「ポストモダン思想」に強く惹かれていたからだ、と述懐しています。そのポストモダン思想ですが、一九八三年の出版である浅田彰の『構造と力』で、難解な思想をチャート化して、同書を手引きとすることで身近に感ぜられるようになりました。いわゆるニューアカブームが、それをきっかけに起こりました。そして、翌八四年に『逃走論』が出版されます。ここで浅田は近代的な主体性(アイデンティティですね)や社会での支配的な価値観にしがみつくのではなく、そこから「逃げろ」とのメッセージを発していました。今から思えば、それは「疑え」だったのですね。

 ポストモダン思想では〈主体の能動性を疑う〉側面が大きく、それの否定的側面を表面化させることで、〈受動性がしばしば強調〉する傾向にあったとしています。しかしそれは、能動と受動の対立の中での〈力点の移動〉であるにすぎず、〈能動と受動の対立そのものから脱却しなければならない(今あるものを全否定して、新たなものを打ち立てると、往々にして、極端と悲惨がもたらされます)〉、つまりそのシステムを〈脱構築〉しなければいけない、との指針をしています。

 では、能動(する)と受動(されられる)とは明確に区別できるのでしょうか。ある行動は、自らがとった行動であるが、自由意志ではなく様々な要因でそう行動した、ともいえるわけですから、〈自発的かどうかなど分からないのです〉。「八つ当たり」を思い浮かべると分かりやすいでしょうか。

 整理すると、「能動なのか受動なのか」には〈自分の意志でやっているか、そうではなく強制されているか〉という意志がかかわっています。その意志の働きとは、少年がお茶碗を割ったことを例として挙げています。それは母親に叱られて腹が立ったからで、母親は夫婦ゲンカ、父親は上司に叱られて、と因果関係はどもまでも遡《さかのぼ》れます。しかし私たちは、この〈因果関係を意志の概念によって切断して〉、〈始まり〉を創出します。つまりそれは、その意志を取り入れることで成立した〈「能動的な主体としての個人」という近代的概念〉が〈責任を社会的に存在せしめるために〉〈必要とされたわけです〉。

 かようにいい加減な「意志」を基準とする「能動・受動」というものが、「中動」を参照することで、その対立は「脱構築」されると言います。

 その中動態とは「水を欲する」という例で説明されています。水への欲求ですね。能動態は「する」ということを指すので、これが能動態なら、「水を欲することをする」になり、意識して水を欲しくなる、という不可能な状態です。〈動詞の名指す過程が自分の外側で完結〉するのではないのです。「水を欲する」とは〈私のなかで水への欲求が高まっていて、私はそれに突き動かされており、むしろ受動的とすら言えます。水を欲するという過程が私を場として起こっている〉のです。それは『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院 2017)で〈受動態はずいぶんと後になってから、中動態の派生形として発展してきたものであることが比較言語学によって、すでに明らかになっている〉と説明されている受動的なものです。

 この中動態を参照することで、能動・意志にとらわれていた「責任」の概念がそこから解放される、と言います。國分による説明を私なりの解釈で示します。

 ソフォクレスの『オイディプス王』というギリシア悲劇があります。「自分の父を殺害し、母を娶《めと》り子をなす」という神託された運命にさらされ、自らの出自を知ったオイディプスは運命によってアイデンティティを狂わされてしまい、自らの目を潰し、彷徨い没落してゆく、という物語です。

 ここには「神的因果性」と「人間的因果性」があると言います。「神的因果性」とは神託された運命のことで、人はそれに巻き込まれるだけの被害者です。「人間的因果性」は、父を殺害したり、目を潰したりといった人間が為《な》した加害者としての「行為」です。普通、責任というときには人間的因果性のみの側面からしか見られません。

 しかし人間的因果性であっても、その因果性はお茶碗を割った少年のケースのように、どこまでも遡れます。ということは、「始まり」は不可知であり、それは神的因果性=運命とするしかありません。少年は、お茶碗を割りたいと欲するから割ったのではないのです。しかし、お茶碗を割るのは悪いことですので、その行為の責任は少年に帰せられ、叱られてしまいます。それで終わりです。罪を犯したので罰せられただけです。これが普通に考えられている責任のあり方です。罰を念頭に罪と向き合っているのです。罰する側と罰される側、という構図です。罪を無色透明化している、と言ってよいでしょう。

 罪=悪であるとの自覚がなければいけません。悪人正機説を参考にすれば分かりやすいです。自ら善であることができない、煩悩から離れられない私たちは、心ならずも悪を犯してしまう、それは抗えない運命なのです。それは「宿業」なのです。そんな煩悩具足のわれらは、弥陀の他力にすがる(念仏をとなえる)ことで往生できる、それは悪を為した私がそのうえで念仏を唱えるからこそ救われるのです。他力にすがることで、悪と向き合っているのです。間違っても、悪を行っても、往生になんの差し障りはないとする「造悪無碍」・悪人を往生させるのが、弥陀の本願なのだから、それを誇って悪を行うという「本願ぼこり」などでは決してありません。

 罪自体だけに向き合うことで、罪は私の中に留まり、そこからの表出が「責任」となるのです。これが被害への応答である、と言っています。この応答としての責任は「義」に近いものだ、とも述べています。そして責任は罪への対応だけではないのです。國分は新約聖書の「善きサマリア人の譬《たとえ》え話」を想起しています。多くの人は眼の前に本当に困っている人がいれば、自分に実害のない限り手助けしようとします。そのとき私の中に生じた「何か」が応答して「手助けする」ことを欲しているのです。

 今回は「利他」は出ませんでした。