サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

学生時代の意義

 三月一日に「就職活動」が本格的にスタートしました。ニュースを見ていたら、いくつかの内定をもらっている学生が、説明会なのでしょう、その会場で他の企業との接触を求めている旨の発言がありました。もっと早くから活動していたのでしょう。就職活動があまりに早く始め過ぎた弊害のため、決められた協定なのでしょうが、はじめから形骸化しているようです。

 私が大学を卒業したのが1983年でして、当時の就職活動の解禁は、10月だか11月だったように記憶しています。というのも、真剣にはに就職活動をしておらず、卒業論文を提出してから、2~3社くらい面接に行っただけでした。履歴書を書いて、面接で自己アピールをして、いったい「何をやっているのだろう」と思い、白けた気分になりました。ふざけてますよね、本当にそうです。高校・大学と入学式にも卒業式にも出席せず、成人式なんて知人のうちでは、女の子が何人か出たくらいでしたから。こんなの私の周囲だけだったかもしれませんが。で、就職はいくつかアルバイトをしていたらいつの間にか、という感じだったと思います(そのあたりの記憶は曖昧です)。同じような時期(卒業が決まってから)に就職活動を始めた人たちの数人は、名の知れた、いわゆる大企業に就職しました。なんとものどかな時代でした。

 新卒一括採用とか入社式(コロナ禍で今は実施されてないようですが)というと、つい、高度成長時代の「金の卵・集団就職」を連想してしまいます。農村部の中学卒業者が、集団で列車に乗ってきて工場へ、というものです。当時の上野駅での映像は今でもたまに見かけます。高卒・大卒者も含めて終身雇用で、じっくり人材として育ててゆく、そして帰属意識と結束、という価値観であったと思います。

 もはや、そういう価値観で何とかなるような時代ではありません。なのに一括採用とか入社式です。企業による「囲い込み」と「囲みこまれたい」学生があって、紳士協定は国際法と同じで機能していません。「これはよくない状態だ」と心に引っ掛かりがあって(そう思いたい)、しかしそれを見ないことにして、仲間から離れないように流されているだけ、としか思えないのです。

 学校を卒業して間を置かずに勤めなくてはならないのでしょうか。数カ月かけて就職先を見つけるのではだめなのでしょうか。企業は入社の手続きもあるので、その都度、というわけにもいかないだろうが、年に何度かの採用というわけにはいかないのでしょうか。今の就職風土を考えるとむつかしそうです。

 新卒一括採用が実施されないと、困るのは新卒者であるとも考えられます。今は新卒者のライバルは新卒者だけですが、それにキャリアアップを図る中途採用者という強大なライバルとも対しなくてはならなくなるからです。いうなれば、新卒者はそれに保護されているのだ、ということです。

 有効求人倍率は1を超えており、転職者は新卒者と比べたら少数でしかないでしょう。あとは「キャリアアップ」や「いつからでもやり直し」が可能な緩やかな規範・意識の整備でしょう。

 学生時代には実社会に直接に役に立たないような学問や利害を度外視した人間関係の構築など、そのときにしかできないことが多くあります。それを削ってまで、就職活動などはするべきではないと思うのです。あえてそれへ取り込まれてしまうのは、冷静に考えれば、将来への不安という「横一線」幻想に取りつかれているからではないでしょうか。

 重要と思いますので、付記でバートランド・ラッセル『怠惰への讃歌』での塩野谷祐一による平凡社ライブラリー版解説「怠惰礼賛」より引用します。

 ラッセル自身、名門の貴族の家系に生まれたが、イギリスの世襲的な有閑階級は狐狩りのほかに知的な活動を知らないと酷評する。閑暇を知的に使うセンスを養うためには、教育が必要である。学校(school)という言葉の語源はギリシャ語のスコーレであり、その意味は閑暇(leisure)である。学校で学ぶということは、労働でなく閑暇を意味する。そして学校は本来、労働のための技術を学ぶところではなく、閑暇のあり方を学ぶところである。 (スコーレのギリシャ語表記は略しました)