「利他」とは何か――伊藤亜紗による

 『「利他」とは何か』(集英社新書 2021)
 この本を手に取ったのは、伊藤が述べているように「利他という言葉は聞くけれどその実態はよく分からない」からでした。というよりも、改めて考えることもなかった、のです。一読後も、あまり釈然としませんでした。しかし、重要と思われるので、各章ごとを私見を交えてまとめてみたいと思います。もちろん、理解不足はあります。
 まず「利他」とは、共感から派生しており、共感は、身近な人重視や、行為者の先入観に左右されがち(享受者はこうあるべきだ。最近では、生理の貧困者はスマホに多くの金を使うべきではない、というのもありました。)と指摘されています。そこから、「その人のことを思って行ったことが、思い込みでしかなく「おせっかい」になってしまったり、見返りを求めてしまう「自己犠牲」などのように、悪い面があらわれる弊害があると指摘します。
 その弊害を意識して、二つの「利他主義」が取り上げられています。
 ① 「合理的利他主義」(ジャック・アタリ)は、自分にとっての利益が行動の動機にしている、ということで、他人のためにしたことの恩恵が、めぐりめぐって自分のところに帰ってくる、という発想、と説明されています。これは、アダム・スミスが「神の見えざる手」と述べたときに前提としたものに近いのでは、と思います。
 ②「効果的利他主義」(ピーター・シンガー)は、「最大多数の最大幸福」という功利主義の原則から導き出されています。例として、優秀な大学生がウォール街に就職し、めいいっぱいお金を稼いで、寄付で貧困にあえぐ子供たち一〇〇人の命を救った、というシンガーの著作にある事例が紹介されています。この子どもたちは絶対的貧困にあえいでいるのでしょう。
 両者は共に、共感は、環境や格差などの地球規模の危機には訳に立たないので、理性で対応すべき、という理性重視の立場にあると読み解いておられます。しかし、私は「共感による起点がなければいけないのでは」「神でない私たちに理性と共感(感情)が峻別されているのか」という疑問をもちます。
 この二つの利他主義に対して、伊藤は①には、「利他」の最大の敵である「特定の目的に向けて他者をコントロールすること」につながるのでは、と疑問を呈しているように思われます。また、②については、リーマンショックなどの金融危機で、寄付のインパクトをかき消す、と批判しています。それどころか、トレーダーがめいいっぱいお金を稼ぐことで格差が生まれ、多くの相対的貧困を生むことになりますが、彼らはトレーダーの生活水準を肌感覚で知っているのです。だから彼らは、彼我の落差の大きさに絶望するのです。さらに伊藤は、「真の利他は、魚の釣り方を教えること」というジョアン・ハリファックスの言葉をあげています。
 くわえて、興味深い事例として、イスラエルの託児所でお迎えに遅れたら罰金、という制度をとったら、遅れる親が増加した、というサミュエル・ボウルズによる話が紹介されています。これは言及されている『安心社会から信頼社会へ』(山岸俊夫)で解釈できます。つまり、安心社会は「法の支配」で成り立っていますが、信頼社会は「共感」で成り立っており、そこでには円滑に維持してゆくために、集団特性により、独自のアンフェアなことはしてはいけない、という暗黙のルールがあります。そして、託児所は対面関係・共感で成立している仲間集団といえるでしょう。そこへ「上から、権力、支配」という原則である「法」で対処しようとしているからです。
 また「災害ユートピア」という事案も取り上げてありました。これは歴然たる(地域)格差社会で共感で生まれてきた、のではないでしょうか。災害ユートピア外では偏見と混乱の支配がありました。また、関東大震災では「災害ユートピア」と「朝鮮人虐殺」が発生していました。
 「利他とは何か」。ケアに携わっている伊藤は、あらゆるもの(人間以外も含めて)にケアで対することで、劣悪な環境と搾取から救い出せるという「相互扶助的」なものの可能性を指摘しており、これは固定化された強者、弱者とは幻想にすぎず、依存関係にある、ということを前提としなさい、ということなのでしょうか。そして「自分の行為の結果はコントロールできない」という大原則をあげ、やってみて、相手が実際どう思うか分からない、という不確実性を意識しない利他は、押しつけであり、ひどい場合は暴力になりかねない、ということを強調しています。