サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

安倍元首相、そして国葬とか

 朝日新聞によると、国葬実施「評価せず」が59%であったと報じられており、新聞の特徴もあるだろうから、おそらく半数くらいが「評価せず」であると考えられるでしょう。そして、実施時に政府は「弔意の強制はしない」と表明していました。弔意とは、人の死をとむらい哀悼する心(広辞苑)ですから強制できるものではありません。しかし、安倍元首相は暴力によって亡くなったのですから、すべての人は心情的には「弔意」は持っている、と思われます。おそらく政府は「弔意の表明を強制しない」、と伝えたかったのでしょう。

 不支持の要因は、報道されているように、国葬は行政府の決定により執り行うことができますが、「やっちゃうんだから」的なノリでいいはずはなく、「国」を冠しているのだから、野党への根回しや、説明を行ったうえでの表明でなければならない、と考えられます。「評価せず」と考える人たちであっても、安倍元首相が亡くなったことへの「弔意」はあるでしょう。しかし、国葬の実施によって、その心が「くすぶってしまった」との印象を持ちます。国葬の定義や基準がない、ということも問題視されています。だから根拠を提示することはできません。国葬が「国内的」な儀式なのか「対外的」なものかもはっきりしません。前者を主とするなら、国民の納得が必要になりますから、執り行える可能性はゼロに近いでしょう(天皇などの場合は「大喪《たいそう》の礼」になります)。後者の面が大きければ、可能になります。長期にわたって「日本の顔」であったのだから、今次の「国葬」は評価できます。政府も功績ではなく、その面を強調すればよかったのに、と思います。

 そして、安倍元首相の評価ですが、外交・安全保障の面では能力を発揮されており、一定の評価をされるべきです。「敵・友」を見極め、そのうえでバランスをとる、という手法が有効に機能していたのではないでしょうか。一方国内に目を向けますと、ここでも同じような手法がとられていた、と思えてなりません(それが「決められる政治」をささえたのでしょうけれど)。「友」とは外交面では自国や同盟国になりますが、内政面では支持者や賛同者などになってしまいます。それを必要以上に重視するということは……。

 取りざたされている「モリカケ・桜」問題にしても、それ自体は、さほど大きな問題ではありません。問題視されるべきは、小さな案件にもかかわらず(ゆえに、か)、「記録の所在」があいまいである、ということです。公のものであるなら記録を残さなければならないなら、行為も慎重になるはずです。記録の不備に責任を負う、でなければなりません。記録を軽視したゆるい活動規範に属していた、と判断できます。

 旧・統一教会との関係についても然りです。関係があるとされているのは、多くは自民党員です。そこに見られるのは、「電報を打ってくれと言われれば打ち、応援していますといわれれば、ありがとう」(二階俊博)という価値観だけであるように感じます。優先順位として支持拡大や権力の維持が上位にあるのでしょう。このような場において私たちが評価しているのは、政策などではなく「有力者」である、ということでしかありません。有力者の側についていれば、私たちに利益をもたらしてくれるだろう、という期待だけです。選出地域・支持母体のために、というアレです。そのような人たちが議員になるのは投票者が自らの利益を何より優先している、ということです。繰り返しますが、有力者への期待だけで、ミーハー的なものです。

 そういえば、大阪府議会で九月二十八日に議員間で「先生」という呼称を使わないことに合意し、府職員にもそれを求めて、「議員は特別」という勘違いを防ぎ、府職員との上下関係を生まないようにする、ということがありました。地方議会では議員は法案などへの議論を行いますが、決議は議会のものです。そして実際に運営するのが職員になります。職員は議会の決議に従っているだけで、議員との関係は間接的なものでしかなく、上下関係が持ち込まれるべきでない、とするのは正統です。では、そこに府民という要素が入ったらどうでしょうか。職員や議員は府民の便宜のために活動します。議員は決議にたずさわり、職員は実務に携わる、原則として府民はその恩恵にあずかります。そして、職員と議員の収入は府民の負担、ということになっています。三者にあるのは上下関係ではなく、共存関係、になります。選挙で「信」を得ているのだから、議員が優位、とされているようですが、求められる職能が違うだけであり、公務員だって、主権者を権威とする試験に合格することで選任されています。

 話を戻せば、安倍元首相の首相としての評価は保留しておきますが、記録の軽視や選挙重視のによる政治をバックグラウンドにしている空間に属する人たちの代表者であるといえるでしょう。それは、記録を残すことで生じる責任や倫理観の欠如、政策による支持の軽視にもなるでしょう。いい加減そのようなものから脱してほしい。それには三バンといわれている「地盤(組織力)、看板(知名度)、鞄(資金力)」と関係のない選挙区に属さなければならない、とするのが適切ですが、既存の議員にマイナスになる法案は難しそうですね。ではどうすれば?選任=選挙=投票という固定観念から自由になる必要があります。選挙って投票が唯一の手段ではないでしょうに。