サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

選択的夫婦別姓などなど

 二月二十四日のNHKおはよう日本』で「"夫婦の姓"どうするべき?」という報道がありました。その中で、夫の姓で夫婦となったカップルがいったん離婚し、妻の姓を名乗ることを選択し直したケースが紹介されていました。じっくり見ていたのではないのでわかりませんが、当事者にとっての事情があったのでしょう。そして国会では、選択的夫婦別姓について公明党や多くの野党は導入に前向きな姿勢を見せていますが、自民党の一部には慎重な立場の議員おり、「別姓では家族の絆が失われる」「旧姓の通称使用の拡大を目指すべき」などの意見が出ている、と伝えられていました。 

 以前から「夫婦別姓」や「同性婚」など婚姻のあり方が大きく取り上げられていました(こんなに問題が表面化しているのに議論にさえ至っていない。なんという国なんでしょうか)。今ある規定はご存じのように、憲法第24条「婚姻は、両性の合意にのみ基づいて成立し……」、民法第750条「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫または妻の氏を称する」になります。

 憲法では成立時に同性婚は想定されていなかったため、「両性」となっています。また民法では「姓」ではなく、あえて「氏」と表記されています。これが重要な点です。両性についてだけ述べますが、たとえば、柿が二つあってその両方とも食べる場合、柿として同じものですよね。同じように考えれば、同じ「性」が二つあってその両方で、と考えることもできそうです。

 問題視されていてそれをふまえた上でも、あえて、婚姻は「異性間で同一の姓を称すして成立する」と考えています。以下に、遠藤正敬著『戸籍と国籍の近現代史 民族・血統・日本人』(明石書店 2013)を参照します。

 ……氏はあくまで戸籍編成の単位としての「家」の呼称なのであるから、佐藤、鈴木、田中といった苗字は星の数ほどあるが、これらは同音異字の呼称であっても氏《傍点》としては同一ではないのである。
 すなわち、氏は「血統」と「家名」を表示する意味を持つものであり、「名」と違って自己の意志と無関係な事実によって定まることを本質としている。 (49頁)

 一応、氏=姓であるとして話をすすめます。苗字とはたとえば、山本さんちの花子さんという場合の「山本」で、個人の呼称であるから「やまちゃん」などと呼んでも構いません。しかし氏は、先祖代々の家名ですから、意志の介在する余地はありません。では氏を強制する戸籍とはなんでしょうか。

 戸籍は個人に対する登録の強制という権力関係を前提とするものである。だが、……個人の自発的な服従を喚起することが支配の安定につながる。……
 ……すなわち、戸籍は何より人民統制の道具であるが、これによって「社会の幸福」が保障されるという恩願的な機能が伴うべきものという理解があったといえる。
 ここにおい戸籍は、国民に対する警察的装置から市民権の保障をもたらす恩願的装置へと主要機能を転換し、単なる身分登録にとどまらない、さまざまな社会関係における構成原理の源泉となっていったのである。 (12・13頁)

 と適切に説明されており、(同一)戸籍の恩顧的装置の成立とその特権化の強調をあえて指摘しています。ここにある人民統制の道具としての戸籍はまず軍によって提案されました。

 1875年(明治8年陸軍省は、兵籍への登録を確実にするためにすべての人民に苗字を使用させることを建議し、これを受けて明治政府は、2月12日に太政官指令第22号によって、苗字の使用を権利から義務に改めた。兵籍の基本資料となる戸籍において、、徴兵適応者の識別を徹底する目的から苗字使用が強制になった。かくして苗字は、「戸」すなわち「家」の名称として同一化及び常用を強制されることで、戸籍名としての「氏」へと変貌していった。  (51・52頁 要約)

 あくまで管理・統制するものとして、が第一です。この時点では国民は戸籍によって管理され、恩顧を受けることができただけであって、〈家系を示すという氏の役割が優先されたため〉「夫婦同氏」ではありません。

 1898年に成立した明治民法は……、第746条に「戸主及び家族は其家の氏を称す」と定め、「一家一氏」を原則として打ち出した。 (54頁)

 1898年は明治31年です。ここにある自民党議員たちが主張している「同姓であれば家族の絆がうまれる」なるものの原型が成立したのです。たった120年ほど前のことです。そしてそれは「婚姻」制度に大きな影を落とします。

 日本における婚姻は「家」同士の"結婚"だが、フランスでは、氏は個人の権利として保障され、妻は婚姻後も夫と同一の家族を構成するものとはされず、夫の氏を使用することは"権利"として認められているにすぎない。  (56・57頁 要約)

 最近は個人名の場合もあるそうですが、結婚披露宴へ行くと「○○家・××家披露宴式場」なんて掲げられているのが今でも多いのではないでしょうか。まさに、家と家を取り結ぶものとしての婚姻ですね。

 政略結婚などのお家のための婚姻、はては、無文字社会でのインセスト・タブーと婚姻に関するレヴィ=ストロースの見解があります。女性は他の親族集団とのつながりを機能させるために、婚姻のかたちをとって母集団から他集団へ移る。だからインセストがタブーとして規制された、というものですね。すべて「お家」を頼りにした婚姻です。氏を基盤にする婚姻制度は、無文字社会のものにも通底するものがあります。

 いまでは婚姻や家族は、戸籍によって保障され恩顧を受けるだけのもの、としての存在価値しかありません(あるいは円満な夫婦や家族といった夢想?)。保障や恩顧は戸籍(ひいては家)から解放されなければなりません。そうなれば「同性婚」や「選択的夫婦別姓」なんて問題にならないでしょう。結婚するメリットはないのですから。ただ権利として「同姓婚」(そんな用語はないでしょうけれど)は認めなければいけません。