サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

「利他」とは何か――中島岳志による

 「利他」を考える手がかりとして、志賀直哉の『小僧の神様』とチェーホフの『かき』が取りあげられています。ごく簡単な要約をします。
  『小僧の神様
 秤屋《はかりや》で働いている小僧が、寿司を食べようと屋台に入り、マグロに手をのばしたときに、お金が足りないことに気づかされ、そのまま食べずに出てゆきます。それを見ていた若い貴族院議員は「かわいそう」に思います。後日、秤屋を訪れた議員は小僧を見かけて連れ出し、寿司屋へ連れてゆき、お金だけを払って去ってゆきます。小僧は彼の正体を知ろうとしますが、店の台帳のものは偽名でした。
  『かき』
 飲食店の前で物乞いをしている父と子。飲食店の店頭に「かき」という文字を認めた子供は、どんなものか知らないので、父に訊《たず》ね教えてもらいます。それを聴いた子どもに「かきを食べたい」という気持ちがわいてきて、通りの人に「かきをおくれよ!」と懇願してしまいます。それを聞いていた二人の紳士が、子供を飲食店につれてゆき、かきを食べさせます。子どもは目をつぶったまま、かまずにがつがつ食べ、からまでかじります。そして、それを見ていたみんなが笑います。
 対比して興味ぶかい要素のある二作品だと思います。
 それを考えるにあたって、中島はいくつかの手がかりを示しています。
 まずは、マルセル・モースの『贈与論』から「ハウ」という交換システムを取りあげています。ハウとは、物に宿る精霊で、森からやってきますが、特定の人や集団にとどまり続けることを望みません。それによってものがどんどん移動し、恵みがもたらされます。しかし、ハウは恵みをもたらしたのち森に帰ってゆき、すると、贈与のリンクを止まってしまい人々に不幸な死がもたらされます。ハウがもたらしたのは、贈与による富だけでなく人と人とのつながりである、と述べています。
 そして、民話である『わらしべ長者』を参考にしています。青侍を主人公にした一本の藁から次々と交換をすることでやがて長者になる、という民話です。手にした藁にアブを括りつけてもっていると、それを見た子どもが、お母さんにあれが欲しいとせがみます。青侍は夢でお坊さんに「大切にしなさい」といわれていたにもかかわらず、思わず子供にあげてしまいました。それじゃあ、と母子の従者がミカンを三個くれます、というのが始まりです。ものすごく不用意に、大切なものをあげてしまっていて、そして具体的な利益は事後的にやってくる、と指摘しています。
 また、私の理解と異なりますが、『歎異抄《たんにしょう》』第四条にある自力である「聖道の慈悲」と他力である「浄土の慈悲」が説明されています。「聖堂の慈悲」とは善いことをしようと思ってする聖者の行いですが、利他の心が見返りを求める自利の心に変容してしまう可能性を疑問視しています。一方、「浄土の慈悲」は阿弥陀仏《あみだぶつ》の慈悲であり、仏の利他心であり、見返りを求めない一方的な慈悲の心であると、しています。それには、業をかかえた煩悩具足の凡夫がそのことに気付くことで、阿弥陀仏衆生を救済してしまう業である大願業力にすがることになる、二重の業の世界に踏み入ることです、と読み解いています。

 私は「聖道の慈悲」については違う解釈をしています。仏教説話にある「空腹のトラに自らの身を与える僧」という自己犠牲のようなものだと考えています。この僧はいずれ、解脱して仏になることを目標にしているのだから、慈悲の心と一体になって、行った行為そのものが、見返りなのでしょう。行いと見返りにズレが生じていないのだと思います。しかし、この慈悲のありようは聖者のものであり、私たちには無縁のものです。そして、自力で「聖道の慈悲」から離れないことで、仏なり阿弥陀仏になり、「外」にある、いわばフィクションとして「利他」の源泉となるのだと思いました。
 最後に、冒頭の二つの小説を比較を念頭に、もう一度要約します。。
 『小僧の神様』では、小僧は一人で寿司を食べに屋台へ行き、お金を払おうとしています。しかし、お金が足りないためにあきらめた小僧を見ていた若い貴族院議員は「慈悲の心」がわきますが、行動には移せませんでした。逡巡するのです。その後、彼は小僧にごちそうするのですが、名乗りませんでした。意志して「見返り」を回避しているのです。若い貴族院議員の自意識の世界ですね。
 『かき』は飲食店とその前で物乞いをしている父と子の対比があります。子供が物乞いをしているのは、周りに知られています。彼にとって飲食店は異質な空間であり、飲食店にとっても彼は異質な存在です。その子供が取りつかれたかのように「かきをおくれよ」と意思表示らしきものをします。そして異質な空間である飲食店につれていかれ、異質さと取りつかれたものに目をつむり、かまずに飲み込んだのです。この連れていった紳士は「拝見する」というリターンのために「かきを食べさす」というコストを負担したのです。これは取引ですね。