「利他」とは何か 若松英輔による
少し厄介です。民藝や手仕事はいいものだと思っています。しかし、それらにおける「美」などといわれると、自分がかかわれる範囲を超えているように感じてしまう。たとえば私には、民藝や手仕事によるものと工業的な製品と、大量生産のいかにもな物は別にして、見分けられない、と確信を持っていえます。
若松が民藝について柳宗悦によりながら述べているのを要約してみます。〈柳は「器」は、生物と異なるが、「いのち」あるものだと考えており、いのちが宿るとき、そこに奉仕の心もまた宿るということを、経験として実感するに至る。 そして、そこに「忘己利他《もうこりた》」が実現し、それには主張するべき自我はなく、どのように用いられるかを人にゆだねている〉。そこから利他・美が現出するものだそうです。「知」としてしかわかりませんので、重要なキーワードでしょうがスルーします。
まず、仏教の言葉をとおして「利他」が説明されています。
「利」とは、現世利益《げんせりやく》(ご利益にあずかる――幸運な人の福が自分にもさずかるよう願う、というようなことでしょう)ではなく、現世に終わらないよき働きが含まれている、と述べています。私なりの解釈ですが、「利」とは現世的でない場所で実現するものである、と信じることでもたらされるものなのでしょう。
つづいて「他」については、自分以外の他者ではなく「自」と「他」の区別を超えた存在だ、と述べられています。それは、「自」があって「他」がある。そこに「それ」が生じることで、この二者とそのつながりを含めた「一なるもの」になる、ということでしょうか。またこれを、「自他不二」という言葉を使っても説明しています。この言葉は自他が一つになるのではなく、自他が二者のままで「不二」になる。数量的な一を超えた、「一なるもの」として存在するという意味です。むつかしいです。二者が「一なるもの」を共同することで再生した存在としてある、ということかしら。これもあいまいな表現ですね。
上記を理解する手引きとして参考になりそうなものが挙げられています。まずは列挙します。
〈本は読まれることで書物になる〉
〈利他とは個人が主体的に起こそうとして生起するものではない。…自他のあわいに起こる「出来事」だともいえます。…マザー・テレサのような人であれば、躊躇せずに、神の助けこそが不可欠というでしょう〉
〈自分を語る前に、他者の声にならない声を聞こうとした〉
これらを理解するのに、「テキスト性」という言葉が参考になります。
本を読むときに、「読みたいことだけを読む」というスタンスにおちいりがちですが、真摯に文章に向き合えば、想定外の表現に出会います。それだけではなく、書かれていないことも読み取ってしまいます、読み込んでしまいます。有無を言わさず、テキストに取り込まれてしまう経験です。作者にとっても作品は発表されればそれは他者に属するものとなり、意図していない読み方にさらされます。それを意識しなければ、仲間内をしか想定していないかのようなソーシャルメディア上のものと同じようなもの、でしかありません。そして、発表されてしまえば、作者にとっても作品は他者として接するしかありません。また、書く過程であっても自身による「誤読」(?)が生じます。そこから書くことでの「気づき」が生まれてきます。これが「あわいの出来事」なのでしょう。
それらをふまえて若松は、〈現代では、論理上の矛盾がないことが正しさの証《あか》しであるかのようになっていますが、…むしろ、矛盾が矛盾のまま表現できているほうが、よほど現実的です〉と現実を受け入れることの困難さと重要さを指摘します。
余談ですが、そして直接関連もなさそうですが、森達也『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』(角川書店 2012)での石川幹人《まさと》の発言を連想しました。
…「夜中にだれもいないはずなのに足音がしたから地縛霊だ」ってなっちゃう。あるいは「写真を撮《と》ったら肩に手がのっていたけれど背後霊だろうか」とか。なぜ足音や手のひらを単体で考えられないのか。つまり現象をどうしても人格というか、ある意思主体に帰属させたくなる。…日常的な意志感覚の延長です (308頁)
私たちは多くのことを「日常的な意志感覚」に基づいて認識しています。しかしそれらは、そこからはみ出てしまうことでもあること、を「ひっかかり」としてあることを、認識しておかなければなりません。
これまた余談ですが、なぜ角川書店のものは発行日が和暦表記なのでしょうか、直感的にいつ頃の出版なのかわからないのに……。