サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

「男だろ!」価値観

 箱根駅伝で発せられた、駒澤大学大八木弘明監督の「男だろ!」という檄が話題になっているようだ。

 最終10区で3分20秒差。誰もが「逆転不可能」と思った差を縮め、奇跡の大逆転劇でレースはクライマックスを迎える。手に汗握る展開の中で、テレビから聞こえてきたのは、駒大・大八木弘明監督の檄である。  (web論座『継承か断絶か 箱根駅伝とファミマにみる「男だろ!」「お母さん食堂」社会の未来ーー消えつつある伝統的家族観をかきたてるファンタジー』井戸まさえ 210115) 

 メジャー・マイナーを問わず、スポーツ競技では必ず勝者がおり、「奇跡の大逆転」も起こりうる。また女性によるスポーツもあり、そこでの勝者は女性になる。選手たちにとっては、観衆や関係者や自分自身による「檄」などは、自身を勝利へ向かって奮い立たせるものになるのだろう。そういう勝利を目的とするスポーツのあり方を「男だろ!」という檄で象徴するのは適切だと思う。いわば、女子競技であっても「男だろ!スポーツ」、性差は関係ない。                          

その対極にあるのが、市民マラソンなどの参加型の「楽しむためのスポーツ」。もちろん、ここでも勝者はいるが、雰囲気を楽しんだり、完走、自己記録への挑戦という、自身にとっての目標が重要になっている。

一方、多くの大会に参加している選手たちは厳しいトレーニングを積んでいる。しかし、勝利を狙えるトップ選手はごく一部にすぎず、多くの選手たちにとってトップとの実力差は歴然としている。彼らにはライバルに勝利したり、より良い成績を残すという目的もあろうが、それは檄を必要とするまでのプレッシャーではないと思う。競技を通して充足感をえるために厳しいトレーニングを積んでいるのではないだろうか。本当にスポーツを楽しんでいるのは「彼ら」なのだろう。いわば「人間だろ!スポーツ」。

これらには、女性アスリートをはじめとする女性も含まれているので、単純に、性差別という視点から批判されるべきではない。女性活躍はスポーツ界ではすでに成立している。そこでの大八木監督の「男だろ!」という檄、男子競技で発せられたのだが、これを「男性社会の価値観」としてみることから始めなければならない。

日本は女性活躍後進国といわれているが、男性社会の価値観が支配している場で女性が活躍するには、男性社会の価値観を身につけなくてはならなくなる(男性である私にとってもそれに馴染めていない)というのでは、本末転倒になってしまう。男性社会の価値観は残ってゆくだろうが、それがメジャーであることは破綻しており、井戸も述べているように「ファンタジー」でしかない。そこでの女性の社会進出である。一定の数まで増えれば質が変わるだろうが、そのような段階は過ぎてしまっている。ただそれに馴染めない者たちとの分断を大きくするだけだろう。