サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

増補 感想2211 その2

⑺予定日はジミー・ペイジ
やはりミーハーは良いと実感できる。それでポジティブであれるもの。そりゃ、予定日がジミー・ペイジの誕生日、それだけでワクワクする。何よりうらやましいのは、夫のさんちゃんの誕生日がマーク・ボランと同じってこと、私なら、それだけで人生得した気分になれる。これがミーハーの良いところ。けれど、残念なことに出産は予定日から遅れてしまう。予定日はジミー・ペイジってことで舞い上がり、なんだか他人事のようでもありながら、向き合わざるをえない妊娠・出産を経験する物語。読後、後日談として、ポジティブ「プレママクラス」の落ちこぼれ仲間であるスタイリッシュ妊婦の佐伯さんと「遅れちゃったけど、予定日はジミー・ペイジの誕生日だったんだよ」などと居酒屋で盛り上がっているところが思い浮び、ニヤケてしまった。
読了日:11月06日 著者:角田 光代
https://bookmeter.com/books/543834

 

⑻幸福の増税論――財政はだれのために (岩波新書)
勤勉、貯蓄という通俗道徳が支配的であった経済成長期、貯蓄は公共事業にまわされ、これがさらなる税収を生み、所得減税と公共事業の財源となり、増税はされなかった。このような財政の慣習のため、政府は税金を取らずにサービスを提供するものだと認識され、税の痛みを生みだす重要な原因となった。このシステムで弱者となるのは、前記の通俗道徳に従わなかったという自己責任だから、救済は後回しにされやすい。それを背景として、社会保障では自己の負担と給付の関係は明確だが、税は使われ方が見えない、自分の利益にとなる負担ではない、という猜疑心が政治不信によって生まれることとなる。重要なのは、公共のための国債の発行と増税は、貯蓄がどちらへ流れるか、向かい方の違いでしかない。ただ国債には利子が発生し、それは銀行へ流れる。
読了日:11月07日 著者:井手 英策
https://bookmeter.com/books/13246180

 

⑼資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐 (集英社新書)
上からの選挙政治・政策立案を重視する「政治主義」とビッグデーターを活用する「アルゴリズム」による管理から、「何が私たちをより良い存在として機能させるものなのか」と問う道徳の必要への気付きを重視する。マイケル・ハートは言う。サンダースが新しい政治のうねりを起したとされているが、新しい政治運動が生み出したものが、サンダースのような政治家たち、だと。つまり、政治家は支持者のフィードバックを受けることで、運動の渦中に立ちあらわれる。その時に弊害となるのが、それぞれの立場があるのだから、相容れなくてもよいとする「相対主義」にかこつけた無関心。必要なのは単独であるしかないが、様々な価値観を「何か」に包摂しながら、より良い合意を求めてゆく政治姿勢、共通の土台がなければ、異なる立場の人たちの対話は成立しないのだから。
読了日:11月08日 著者:マルクス・ガブリエル,マイケル・ハート,ポール・メイソン
https://bookmeter.com/books/14168468

 

⑽すごい進化 - 「一見すると不合理」の謎を解く (中公新書)
子孫を残すのに無性生殖では単独で分裂・増殖が可能だが、有性生殖は対になって残してゆかなければならない、というコストを負担するが、親から半分づつの遺伝子を受け継ぐのだから、多様性はある。しかし多様性には正と負があるので、良い子孫を残すためには、適応した相手を選択しなければならない。美しいクジャクの羽は捕食者にも目立つので不利であるが、それでも生き残るのだから強い個体として選択される。クリサキテントウの幼虫は成長を犠牲にして捕食に有利な形質を獲得した。など環境に適さない個体は排除され、害でない多様性を内在させて環境に適応してゆく。つまり、生存に害のある遺伝子を持つものは、生き残り子孫を残すことは困難で、実害のないものが多様性として、潜在として受け継がれてゆき、それが環境変化などで危機に出会うと有効なものとして発露し、適応してゆく。それが進化。
読了日:11月09日 著者:鈴木 紀之
https://bookmeter.com/books/11777941

 

(11)韓国とキリスト教 いかにして“国家的宗教”になりえたか (中公新書)
韓国は歴史の大部分に中国の脅威があり、その「民族的苦難」がユダヤの「選民思想」と結びつくことを可能とし、キリスト教を受け入れる基盤となる。それを受け入れることは、儒教にはない内面的信仰を重んじることになり、キリスト教民族宗教と見なすことが可能となった。しかし当初、キリスト教は宗教ではなく、学として両班層に受容されたのだが、厳格な身分制度の下、社会的に抑圧されていた一般庶民に「神の下での平等を説くキリスト教の教えが」救いとなり、人々を惹きつけた、という。そして、一般庶民は素養として巫俗《ふぞく》信仰に慣れていたので、神への信仰というより、牧師を祭司と見る傾向が強く、それが個別教会主義の土台となり、教会の拡大が第一となってゆく。
読了日:11月09日 著者:浅見雅一,安廷苑
https://bookmeter.com/books/14705302

 

(12)生物はなぜ死ぬのか (講談社現代新書)
無性生殖の単細胞では分裂により若返り、優れた分裂能力を持つ。一方、有性生殖の多細胞生物は単体での分裂による若返りを断念し、世代交代に頼る。つまり性の成立で死が生じた。死の反対は生でなく性なのである。死というコストがあるのになぜ性を持ったのか、「多様性」の獲得のため、という。なぜ多様性は有利なのか。ある種が絶滅しても生物多様性があれば捕食関係は他の種が代替えになることによって保たれ、餌となるものが無くなることはない。任意の種においても、世代交代によって多様性が獲得され、環境への対応が幅広くなる。それを踏まえれば、進化は環境に迫られた選択という適応で起こるが、それは子世代による多様性を保持することで可能なのだから、多様性や可能性を失ってゆく親世代は「死」という選択を行っている、ということになる。
読了日:11月10日 著者:小林 武彦
https://bookmeter.com/books/17807858

増補 感想2211その1

2022年11月の読書メーター
読んだ本の数:30冊
読んだページ数:7815ページ
ナイス数:78ナイス

https://bookmeter.com/users/1367150/summary/monthly/2022/11


 ① <責任>の生成ー中動態と当事者研究
ポストフォーディズムでは、欲望を「使い捨て」にするものとして扱われるから、そこには、過去にとらわれた結果である原因、に起因する責任は生じない。一方、過去を重視すると、事態の原因はどこまでもさかのぼれ、無限後退となってしまい、責任は消滅してしまうのいで、それを意志の力で切断して出発点を作り出し、そこから責任を導きだそうとする。この作為性を乗り越えるため、「当事者」というあり方に注目する。責任は過去に由来するものではなく、様々な過去の要因が作用して、今このようにしてある、という当事者という自覚のもとに生成する。そこでは、経験される場としての「私」があることで、自己が生成され続ける、という。
読了日:11月01日 著者:國分功一郎,熊谷晋一郎
https://bookmeter.com/books/16984662

 

 ② 縁食論――孤食と共食のあいだ
孤食や共食ではなく縁食、縁とは、たまたまのめぐりあわせであり、人間の全的でない「ヘリ」「ふち」であるものが並存している場でもある。「たまたまの多様性の出会い」と言ってもいい。その由来を木もれ陽のきらめきで説明している。それは「葉と枝が吸収できない光のおこぼれがもたらす空気の建築である。…ところが私たちの脳内は完全遮断か完全開放かの二者択一にずっと支配されてきた」。ここに、二者択一でない縁による「もれるもの」との出会い素晴らしさが発生する。そして、縁とは物言わぬ死者との出会いでもある、と言う。食べるというのは、死者となった食べ物を食べているのであり、また死者を死者として出会うことによって、思い出と結びつき、それが縁となって、ともに生きてゆく。
読了日:11月01日 著者:藤原辰史
https://bookmeter.com/books/16836922

 

 ③ 見ることと見られること (岩波現代文庫)
見ることと見られることへの、そのプロである高名な映画評論家のエッセイ。見る主体と見られる対象が逆転している場から考察を進められている。視線を意識することで私たちは自身を認識し、自己を形成する。つまり、見られることで主体となるといえる。逆に、見るという行為は見惚れるや見守るなど、対象にとらわれることだから、主体性の放棄に近い。たとえとしてポルノ映画があげられている。かつては映画館へ行き他人の目を意識しながら、上映と同時進行で観ていたが、ビデオでは、他人の目を気にせずに、目的のシーンだけを見ることが可能となった。好みのシーンを選んでいるのだが、映画よりもより強く、対象に支配されることになってしまった。
読了日:11月02日 著者:佐藤 忠男
https://bookmeter.com/books/144883

 

 ④ マルクス・ガブリエル 新時代に生きる「道徳哲学」 (NHK出版新書 645)
自然主義は現象などを量的に処理するものでしかなく、そこでは、経験の質は抜け落ちてしまう。だが、質は積み重ねることで量として変換可能であるが、量を積み重ねるだけでは質は生じない。そこで、質の優位が説かれ、そこから道徳を再生させす道を選択する。ガダマーの言葉を引用し、「相手の観点を感性も含めて考慮する必要があ」り「相手の立場からどう見えるか」を重視すべきと主張する。コロナウイルスパンデミックでの私たちのウイルスへの対応にも、その主張を関連させている。ウイルスの性質が明らかになった状態では、ウイルスの側から私たちをみるという想定を持つ必要がある。両者とも自然の中に統合させられて「ある」のだから。
読了日:11月03日 著者:丸山 俊一,NHK「欲望の時代の哲学」制作班
https://bookmeter.com/books/17479364

 

 ⑤ 暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
大衆社会の成立で、暇が有意であった貴族ではないブルジョアは、暇を生きるすべを知らないのに暇があたえられ、その解消のため、欲望がかき立てられる、終わりのない消費によって、退屈から出ようとする。快原則によれば、快は興奮状態の減少、不快は興奮量の増大になるが、人間は「快」の状態を退屈と感じてしまうことによるためだ、と言う。性行為を例にあげると、性衝動によって興奮量は増大し、その解消のため、性行為による快楽を享受することで、快=安定を得る。しかしそれは退屈につながるので、あえて不快な性衝動を引き寄せるてしまう「消費としての性」となってしまう。対象を享受して満足を得る「浪費」、それが記号や観念にすり替えてしまっての「消費ゲーム」に変換されてしまう。
読了日:11月05日 著者:國分 功一郎
https://bookmeter.com/books/9498071

 

 ⑥ 本当に君は総理大臣になれないのか (講談社現代新書)
政治家を飴玉をくれる相手としてしか見ないから、政治家は飴玉を与えることに努める。だから有権者は地盤・看板・カバンを基準に、より多く与えてくれる有力者を政治家として選ぶ。著者にはその現状への不信がまずあり、その円環を拒むことを自身の政治スタンスにしている。現在、日本の政治では、ますます国会が機能しなくなってきており閉塞感に満ちている。それを打破するために、政府と与党による事前審査制度を廃止し、「国会を実質化する必要があ」り、政権公約は「国民と政治家が信頼強度を高め」共有できるものにしてゆく、と語る。利害を異にするものも含めての対話によって共有できることを見つける、いうなればその共有されることのみが政治の領域。
読了日:11月06日 著者:小川 淳也,中原 一歩
https://bookmeter.com/books/18109147

読書メーター 2210

2022年10月の読書メーター
読んだ本の数:26冊
読んだページ数:7371ページ
ナイス数:84ナイス

https://bookmeter.com/users/1367150/summary/monthly/2022/10
■職業は売春婦
フェミニズムでは女性の性は男性によって搾取される、という構図になっている、特にセックスワークの場においては。そこでは、セックスワーカーたちの声は取り上げられないだけでなく、善意によって彼女たちをその境遇から救い上げようとする、その仕事を自ら望んでいる者もあるにもかかわらず。意に沿わぬ強制、様々な暴力、経済的搾取はあってはならないが、彼女たちへの偏見も倫理的な問題。彼女たちはエッチなお仕事をしているだけで、それが人格ではない。彼女たちが望むのは待遇改善だけ。セックスワーカーフェミニズムのの試金石。愚行権
読了日:10月30日 著者:メリッサ・ジラ・グラント
https://bookmeter.com/books/9794906

■快感回路---なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか (河出文庫)
快感回路が刺激を受けるとドーパミンが放出され、快感が得られる。実験室で、同性愛の男性の快感回路を刺激し、男女間のポルノフィルムを見せると自慰行為を行い、また売春婦との間に性交渉がもたれ、膣のなかに射精した。回路への刺激だけなら報酬ではないのか。またアルコールや薬物によって快感回路が乗っ取られることが、快の状態に導くことにもなる。様々な快と快感回路の仕組みが説明されている。おそらく快感は、回路への刺激によるドーパミンの放出だけで得られるのではなく、なんらかの行為の結果でもたらされることに意義があるのだろう。
読了日:10月29日 著者:デイヴィッド・J・リンデン
https://bookmeter.com/books/8215729

■経済の起原 (クリティー社会学)
経済には生産、消費そして本書で重視する交換の局面があり、それは貨幣によって担われる。その貨幣は手段でしかなく消費できない、つまり回収できない負債として流通しているもの。負債をキリスト教に託して説明している。負債=原罪は神=キリストが人となりその死によって贖わられ、その不在が信仰共同体を成立させたという。この小さな共同体には負債=貨幣はその原理を為さないが、他との共同体との間、外部では有効な原理としてある。負債を免れるコミュニズムは小さな共同体のものでしかない、コミュニズムを原則とした共同体の可能性は?
読了日:10月29日 著者:大澤 真幸
https://bookmeter.com/books/19153395

■五瓣の椿 (新潮文庫)
色に溺れる家付きの妻おその、と仕事一図の主人喜兵衛、その娘おしの。おしのは母と茶屋通いしていたが、父が病に倒れると、その世話に携わるようになる。やがて父は「おそのに一言」という謎を残して亡くなるが、母は寄りつきもしない。不義の娘であることを告げられた、おそのは、その謎の言葉に導かれるように不義の人たちの殺害を決意する。殺害した時、怖れにとらわれた時、おそのの軀に性的な反応が生じる、まるで聖女の法悦=エクスタシーであるのように。エロス的な母と謎の言葉に象徴される父、このシーンでおしのは母と父の娘となる。
読了日:10月27日 著者:山本 周五郎
https://bookmeter.com/books/13794809

■〈宗教化〉する現代思想 (光文社新書)
宗教は信じる、信じないということを拠り所にしている、だから独断論ともいえる。そこでは真理であることに根拠は必要がない。そもそも真理とされるものはその状況によって様々だから、絶対的ではなく相対的であるといえる。立場により様々であるのだから、あれもこれもOKと干渉しない、お互いを尊重するだけ。相対的であるということを重視する相対主義、それを真理とみなしているのだから独断論ともいえる。それを超えて「自分が特定の形而上学に取り憑かれているかもしれない」という疑いを抱くこと、そこに哲学の可能性を見ている
読了日:10月27日 著者:仲正 昌樹
https://bookmeter.com/books/8625096

■妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ (集英社新書)
かつて、生と死と不可分に結びついていた妊娠・出産という過程は、死もしくは血のケガレとみなされ、隔離されていたが、それが医療の管理下に置かれることで、その身体は伝統的共同体から個人に属するものとなった。つまり、妊娠・出産、そして母になるという女性の身体性が対象でしかないということ、その自身にとって大きな変容に受動的にしかかかわれない。それを取り戻し、能動的なことにするという切実な思いを子宮系、胎内記憶、自然なお産というスピリチュアリティに託しているという。それが聖別された母と子という関係に象徴される。
読了日:10月27日 著者:橋迫 瑞穂
https://bookmeter.com/books/18346467

■中国の論理 - 歴史から解き明かす (中公新書)
孔子の理念を明らかにしようとして編纂された歴史書「春秋」に端を持つ中国の「正史」の伝統、それが正統というイデオロギーを紡ぐ。そこから中国は統一体であるというイデオロギーが生まれ、多くの時代がそれに反する正すべき「分裂時代」であったという認識が生まれる。また華夷秩序、現在の中国の範囲は清朝と重ね合わされているが、その起源は満州にある。それが五族共和という理念のもと漢人に同化した。つまり領土に住む夷である民族は漢人より下位に属する中国の国民であるとして、「一体化して同化すべき」という論理となった、としている。
読了日:10月23日 著者:岡本 隆司
https://bookmeter.com/books/11099677

■ヴァギナ
ヴァギナとは膣口のことだが、著者は陰唇からクリトリス、子宮頸部を含めた女性生殖器全体をそう名指しし、女性性を象徴するものとして扱う。女性の身体は質において男性と異なるが、性器や骨盤の神経の複雑さを強調し、それがセックスに及ぼす影響を教えてくれる。いまの男性を手本とした身体活動と女性の身体の負担が想定される。性交後の肉体と感情の悦びでもたらされる一体感、ヴァギナとペニスとポルノなどにも言及されるが、アラン・フィッシャーを引いて、(哺乳類の)性対象選択の場では雄でなく雌が選択権を有していることを強調している。
読了日:10月22日 著者:ナオミ・ウルフ
https://bookmeter.com/books/7883373

■それをお金で買いますか (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
あらゆるものが市場にさらされ、道徳に対する市場の勝利がみられる。取り上げられている二例に注目する。高校生が寄付を集めることでの調査で、無報酬と寄付額の1%と10%の報酬の三グループに分けたところ、無報酬のグループが一番多くの寄付を集めた。報酬がインセンティブにならず逆の作用をもたらしたのだ。スイスの小さな山村で核廃棄物処理場の受け入れについて、1993年に社会調査が行われ、住民投票が行われ51%が受け入れるとしたが、補償金を提示するとそれが25%になってしまった。わが国ではどうであろうか、心もとない。
読了日:10月21日 著者:マイケル・サンデル
https://bookmeter.com/books/8963449

■ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)
ハーモニー(調和)と意思との対比が興味深い。不協和音、調和にはそれがないが、意志はそれが前提。たとえとして会議で説明されている。意志とは論争を繰り広げている会議そのもの。[ひとつのまとまった存在じゃなく、多くの欲望がわめいている状態なんだ。人間ってのは、自分が本来はバラバラな断片な集まりだってことをすかっと忘却して、「わたし」だなんてあたかもひとつの個体であるかのように言い張っている]。調和は一つの個体である状態、会議によってもたらされることもあるが、それは仮のもの。ハーモニーでは会議は必要とされない。
読了日:10月20日 著者:伊藤計劃
https://bookmeter.com/books/8225108

■江戸の性風俗 笑いと情死のエロス (講談社現代新書)
精神性重視の西欧的恋愛観が持ち込まれる以前のエロス、肌を合わせるという精神・肉体関係が未分化な状態、つまり、触れ合うことで精神へ及ぼす作用の過程をもそれに含んでいた時代。「心中」についての考察が興味深い。心中とは来世で夫婦になるのを望んでの情死になるが、その起源は戦国時代の男色による絆とそれに伴う殉死にあり、殉死に限らずとも、愛される美少年が「愛」の証拠を死をもって、世間や愛する者に示していたことだという。心中も当事者が、自身らに向けて、来世にかなえられる愛を望んで、証拠立てる確認とも言えよう。
読了日:10月19日 著者:氏家幹人
https://bookmeter.com/books/6971810

■近代日本の陽明学 (講談社選書メチエ)
本の見返しに「動機オーライ主義」とメモが書かれている。興味を抱いたどなたかの書評からのメモ。それは民の困窮を見かねて善意で武装発起した大塩平八郎の乱などにもあてはまる。動機だけあってそれの及ぼす影響は十分には考慮されていない、陽明学の概念の一つである自分のなかに道徳の基準が備わっているとする「良知」の偏重なのであろう。水戸学から明治維新のイデオローグたち、そして三島由紀夫の自殺(軌道を逸した計画性を持っていたと評している)までが取りあげられる。善意という自己だけを拠り所とする行いには用心しなくては。
読了日:10月16日 著者:小島 毅
https://bookmeter.com/books/391490

動物裁判 (講談社現代新書)
中世を中心にヨーロッパで行われていた「動物裁判」を取り上げた名著。人に危害を加えたり、作物に害を与えたりした動物や昆虫に対して、裁判を開き罪状を明確にして罰していた。これは魔女裁判と同じ構造だと著者は言う。まつろわぬものたちに善悪の人格と意図を負わせ、罰する。つまり、洗礼の名のもとに、キリスト教徒化させたうえで、その世界の秩序によって裁き、その世界から追放という手順になっている。不可解ではあるが、現代にいる我々はどうであろうか、百年もすれば不可解なものにとらわれている、と見られることを予感させてくれる。
読了日:10月15日 著者:池上 俊一
https://bookmeter.com/books/471716

■非国民な女たち-戦時下のパーマとモンペ (中公選書)
非国民とは、について考えさせられた。私的領域が公的にさらされる戦時にあって、パーマをあてたりモンペ着用しなかったりなど、女性が見た目を気に掛けるという私的価値観にとどまることなどを言うのであろう。反戦ではない。パーマは髪がまとまりやすく活動しやすいであろうし、モンペは和服の上から着用する活動着なのだから、動きやすさはズボンが勝る。それを白い目で見たり非難する者たちより、美しさを求めるという動機であるにせよ、彼女たちの方が時代の要請にかなっている。非難者は根拠のない「であるべき」観にとらわれていただけ。
読了日:10月14日 著者:飯田 未希
https://bookmeter.com/books/16880157

アメリカ 異形の制度空間 (講談社選書メチエ)
アメリカとは自由の制度空間である、と述べられている。その自由は、先住民の暮らしていた名もない空間を「排他的で不可侵の権利として私的所有権」に基づき領有したところに源泉を持つ。私的所有、つまり私が誰にも属しておらず、私が自身の主人であることが自由の基盤になる。そしてアメリカは歴史のない国、と言われているように、そこはかつて名もない、いわゆる自然状態の空間であったが、そこを領有し命名することが、洗礼することとなり、神の国に存在することとなる。自然、歴史から遊離した人工空間の出現である。
読了日:10月14日 著者:西谷 修
https://bookmeter.com/books/11165964

舟を編む (光文社文庫)
2012年の本屋大賞受賞作だけあって、面白い。小説の舞台は国語辞典の編纂から完成までの15年間、その間の登場人物たちのさまざまな出来事が絡み合って描かれている。小説の内容については取り上げないが、辞書っぽい雰囲気を持たせるためか、多くの漢字にルビが振られており、その取捨選択は大変だっただろう、と思う。はじめて読んだ時、本文2ページ目に岩波国語辞典に「いわなみこくごじてん」とルビがあるのが目に入り、そこに視線が吸い寄せられたのを思い出す。当方の思い込みだけだろうが、岩波を平仮名にしちゃうなんて強引すぎ。
読了日:10月13日 著者:三浦 しをん
https://bookmeter.com/books/9561299

■宇宙になぜ我々が存在するのか (ブルーバックス)
物質は反物質とペアになって生じる。それが対となると消滅しエネルギーとなってしまい、宇宙には物質が存在しなにことになってしまう。しかしニュートリノは非常に軽く光に近いスピードを持つので、まれに対にならず追い越してしまいその対のなるべきものが物質として残ってしまう、と説明されている。そして素粒子は重さを持たないものだが、宇宙の温度が4000兆度に冷えるとヒッグス粒子が凍りつき、それに素粒子が気付き重さを持つという。かような奇跡的な経緯で我々は宇宙に存在する。このような最新の素粒子論が、やさしく紹介されている。
読了日:10月12日 著者:村山 斉
https://bookmeter.com/books/5759272

■皮膚、人間のすべてを語る――万能の臓器と巡る10章
たとえば、皮膚がなくてもそれが人間だとわかるが、そこに人間らしさはない。つまり、皮膚はアイデンティティを為す第一であるといえよう。そして外部と接するということで胃や腸と同じく重要な臓器でもある。口から肛門までの通路で外部から摂取、吸収、排泄をこなし、皮膚は環境から体をバリアする機能を一手に引き受けている。また、熱いものに触れた時、苦痛を感じる前に手を引っ込める、という皮膚の賢さを再認識できた。数々の皮膚、触覚の奥深さに触れられ、読んでいるのが楽しかった。
読了日:10月11日 著者:モンティ・ライマン
https://bookmeter.com/books/19603333

■女装と日本人 (講談社現代新書)
女装とは女を装うことなのだから、本来、ヴァギナかペニスのどちらが備わっているかは問われるものではない。本書では生得的にヴァギナのない性の女装が扱われている。そのもっとも洗礼されているのが、双性的で美しい稚児を美しい女性が模する、つまり「女性器を持つ美しい稚児である白拍子」であろう。このような異性装が奇異なものとしてみられだしたのは、近代的な戸籍制度で、夫婦、男女が制度として確立され、「あいまいな性が残存できる余地は無くなった」としている。
読了日:10月09日 著者:三橋 順子
https://bookmeter.com/books/62701

■女系図でみる驚きの日本史 (新潮新書)
古典文学にはまった中高生以来、系図を書きだすのが趣味であるという。誰にでも父と母はあり、それなのに男系だけでまとめてゆくのは不自然で、著者は母系に注目し、取り入れることで、歴史の新たの側面を見せてくれる。一例として、天皇家の男系継承。母(元明天皇)から娘(元正天皇)への皇位継承があります。元正は天智・天武の孫にあたるのでから、と言われそうだが。文武天皇にしても天武・持統天皇の孫で、持統から皇位を継承している。系図は系統立てたものだから、フィクションである男系の方があっているのかも。
読了日:10月08日 著者:大塚 ひかり
https://bookmeter.com/books/12241922

■世界の陰謀論を読み解く (講談社現代新書)
陰謀論とは世界は複雑なので、出来事の因果は説明できないのだが、なんらかの権力の影響下のものだとして、自ら納得しようとするものだ、と単純に思っていた。しかし組織化された場合、それは体系となったものであり、自身の価値観をそれのみで正しいと信じ、それが理解されないのは強大な力によって妨害されているとして、「自らの正当性と現状の不遇、自分たちを陥れる「敵」の存在、社会との闘争の必要性を説明するものと機能したのである」、という。宗教が現実から遊離していく契機となるものであろうか。
読了日:10月06日 著者:辻隆太朗
https://bookmeter.com/books/5623368

■あなたの体は9割が細菌: 微生物の生態系が崩れはじめた (河出文庫)
パンダのゲノムは食肉目になるで竹は消化できない。寄生している微生物が消化の役割を果たし、競合のない食を独占できた。寄生している微生物の働きが生存に影響を与えているので、パラサイトし合い共存している、ともいえる。私たちの体も細胞レベルでは、ヒトの部分は1割で、外来の微生物の細胞が9割になるという。胎児は母胎内で出産時に膣内の微生物のシャワー浴びることがはじめての外界との接触になり、微生物をまとうことで命になる。そして、微生物のつくり出す環境の重要さが説かれている。共存と環境に関心があるならおススメ。
読了日:10月05日 著者:アランナ コリン
https://bookmeter.com/books/17023537

■歴史人口学で見た日本〈増補版〉 (文春新書 1363)
宗門改帳での家族分析から社会の変遷をたどる。著者のいう勤勉革命に興味を持った。農地形態が合同家族世帯の大規模なものから直径家族世帯への推移に注目し、大規模では目が届かずサボるものもいたが、労働力が家族だけなら、収入は家族に帰ってくるので一生懸命に働くようになった。また、世帯が増え、家畜を飼育する場所より農地を開墾することが優先される。家畜は維持できなくて農作業に使えなくなり、農家の労働時間や労働強度が増すようになる。「労働は美徳」が道徳化され、労働集約・資本節約が強化されてゆく。鋭い分析である。
読了日:10月03日 著者:速水 融
https://bookmeter.com/books/19676936

■私の親鸞: 孤独に寄りそうひと (新潮選書)
五木は十二歳の時、平壌で敗戦を迎えた。翌月、混乱の中で母を亡くし、幼い妹と弟を養いながら引き上げの日々を過ごす。それは悪夢のような日々であった、と回顧しており、それを生き延びて帰って来た自分は「悪人」だという意識をもつ。そのような彼にとって「悪人正機」を説く親鸞は身近に感じられる存在なのだろう、教義から「悲の親鸞」が寄りそっていることを見出す。とはいっても、五木は口承念仏を念頭に置くのではなく、悪と向き合うことで親鸞が寄りそうのを実感しているのですが。
読了日:10月02日 著者:五木 寛之
https://bookmeter.com/books/18721550

■仏教の大東亜戦争 (文春新書 1365)
一八七二(明治五)年四月、政府は『僧侶の肉食妻帯畜髪の自由』を布告し、翌年には尼僧にたいしても、同様の布告を行った。これにより僧侶は聖職でなくなり、世俗の職業となった。身分は庶民と同じになった、つまり臣民。そして、廃仏毀釈があり、後ろ盾を失った仏教は存在価値を認めてもらう必要を感じ、臣民の統治のために寺社のネットワークを利用されただけでなく、教義を曲解して「皇国史観」を取りこみ、取り込まれ、戦時加担まで進むこととなる。
読了日:10月02日 著者:鵜飼 秀徳
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■ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)
出版後、三カ月弱で10刷を重ねている。現在知的障碍者の定義はおおよそIQが70未満で社会性に障害があることになっていて、2%が該当するが、1950年代では85未満で、適応すると16%という。さらに、100ないと普通の生活がしんどいといわれている。そしてIQが高くても社会性に問題があるケースもあるという。そういう人たちは行為とその結果を関連付けることが困難で、不適切な行為に走りやすいという。現在は、想像以上の人たちが、自分自身に対してさえ気配りができないでいる、という社会なのである。
読了日:10月02日 著者:宮口 幸治
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安倍元首相、そして国葬とか

 朝日新聞によると、国葬実施「評価せず」が59%であったと報じられており、新聞の特徴もあるだろうから、おそらく半数くらいが「評価せず」であると考えられるでしょう。そして、実施時に政府は「弔意の強制はしない」と表明していました。弔意とは、人の死をとむらい哀悼する心(広辞苑)ですから強制できるものではありません。しかし、安倍元首相は暴力によって亡くなったのですから、すべての人は心情的には「弔意」は持っている、と思われます。おそらく政府は「弔意の表明を強制しない」、と伝えたかったのでしょう。

 不支持の要因は、報道されているように、国葬は行政府の決定により執り行うことができますが、「やっちゃうんだから」的なノリでいいはずはなく、「国」を冠しているのだから、野党への根回しや、説明を行ったうえでの表明でなければならない、と考えられます。「評価せず」と考える人たちであっても、安倍元首相が亡くなったことへの「弔意」はあるでしょう。しかし、国葬の実施によって、その心が「くすぶってしまった」との印象を持ちます。国葬の定義や基準がない、ということも問題視されています。だから根拠を提示することはできません。国葬が「国内的」な儀式なのか「対外的」なものかもはっきりしません。前者を主とするなら、国民の納得が必要になりますから、執り行える可能性はゼロに近いでしょう(天皇などの場合は「大喪《たいそう》の礼」になります)。後者の面が大きければ、可能になります。長期にわたって「日本の顔」であったのだから、今次の「国葬」は評価できます。政府も功績ではなく、その面を強調すればよかったのに、と思います。

 そして、安倍元首相の評価ですが、外交・安全保障の面では能力を発揮されており、一定の評価をされるべきです。「敵・友」を見極め、そのうえでバランスをとる、という手法が有効に機能していたのではないでしょうか。一方国内に目を向けますと、ここでも同じような手法がとられていた、と思えてなりません(それが「決められる政治」をささえたのでしょうけれど)。「友」とは外交面では自国や同盟国になりますが、内政面では支持者や賛同者などになってしまいます。それを必要以上に重視するということは……。

 取りざたされている「モリカケ・桜」問題にしても、それ自体は、さほど大きな問題ではありません。問題視されるべきは、小さな案件にもかかわらず(ゆえに、か)、「記録の所在」があいまいである、ということです。公のものであるなら記録を残さなければならないなら、行為も慎重になるはずです。記録の不備に責任を負う、でなければなりません。記録を軽視したゆるい活動規範に属していた、と判断できます。

 旧・統一教会との関係についても然りです。関係があるとされているのは、多くは自民党員です。そこに見られるのは、「電報を打ってくれと言われれば打ち、応援していますといわれれば、ありがとう」(二階俊博)という価値観だけであるように感じます。優先順位として支持拡大や権力の維持が上位にあるのでしょう。このような場において私たちが評価しているのは、政策などではなく「有力者」である、ということでしかありません。有力者の側についていれば、私たちに利益をもたらしてくれるだろう、という期待だけです。選出地域・支持母体のために、というアレです。そのような人たちが議員になるのは投票者が自らの利益を何より優先している、ということです。繰り返しますが、有力者への期待だけで、ミーハー的なものです。

 そういえば、大阪府議会で九月二十八日に議員間で「先生」という呼称を使わないことに合意し、府職員にもそれを求めて、「議員は特別」という勘違いを防ぎ、府職員との上下関係を生まないようにする、ということがありました。地方議会では議員は法案などへの議論を行いますが、決議は議会のものです。そして実際に運営するのが職員になります。職員は議会の決議に従っているだけで、議員との関係は間接的なものでしかなく、上下関係が持ち込まれるべきでない、とするのは正統です。では、そこに府民という要素が入ったらどうでしょうか。職員や議員は府民の便宜のために活動します。議員は決議にたずさわり、職員は実務に携わる、原則として府民はその恩恵にあずかります。そして、職員と議員の収入は府民の負担、ということになっています。三者にあるのは上下関係ではなく、共存関係、になります。選挙で「信」を得ているのだから、議員が優位、とされているようですが、求められる職能が違うだけであり、公務員だって、主権者を権威とする試験に合格することで選任されています。

 話を戻せば、安倍元首相の首相としての評価は保留しておきますが、記録の軽視や選挙重視のによる政治をバックグラウンドにしている空間に属する人たちの代表者であるといえるでしょう。それは、記録を残すことで生じる責任や倫理観の欠如、政策による支持の軽視にもなるでしょう。いい加減そのようなものから脱してほしい。それには三バンといわれている「地盤(組織力)、看板(知名度)、鞄(資金力)」と関係のない選挙区に属さなければならない、とするのが適切ですが、既存の議員にマイナスになる法案は難しそうですね。ではどうすれば?選任=選挙=投票という固定観念から自由になる必要があります。選挙って投票が唯一の手段ではないでしょうに。

『往生要集』入門 人間の悲惨と絶望を超える道  

 本書における著者のスタンスは、人間は誰でも「苦」や「限界状況」に直面してしまう可能性があり、そうなったときに頼れる「大きな物語」が必要である。しかしそれは、独りよがりのものではなく、道理にかなっているかを見定める必要がある、というところにあるだろう。その視点から源信の思想を読み解こうとしている、と感じる。
 そして、それを根拠づけるものとして、ある種の因果(つまり、「教えを聞いて感動して信じる者は、彼らがすでに前世で仏道を行じていたから」)で説明する。私も、なぜ信じる者と信じない者が生まれるかは、「前世」でなくとも、これまでの「学び」によるところが大きい、という説明で納得できる。その人の積み重ねてきた経歴で、判断以前のものを形成する資質、と言えばいいのかもしれない。しかし、それらの根(因)のない者(「人道」に出てきたばかりの者、と説明している)は、教えを信じず、独りよがりの「大きな物語」(陰謀論やカルト)に頼ってしまう。なぜなら、誰でも「苦」や「限界状況」に直面する可能性があり、そのとき何かに救いを求めてしまいから。
 ここから「浄土思想」を評価する姿勢が読み取れる。
 大乗仏教では、様々な非歴史的な「仏」が生み出されていることを重視する。それはブッダから隔たっており、教えを実践できない時代の、経典の教えの象徴として必要とされたものであろう。もちろん阿弥陀仏もその一つ。
 阿弥陀仏の廻向とは「法藏《ほうぞう》菩薩の時代に得た功徳の一切を、悪人たちに振り向けること」で、浄土教の根幹となるものだろう。
 そして、源信は、浄土に生まれて「仏」になりたいと願う「菩提心」を重視する。娑婆世界では本質的な修行はできないので、阿弥陀仏を「観想」することで、自身と向き合い、その後に阿弥陀仏の「宿願力(廻向)」にすがり、浄土に生まれ、そこで「仏」となるのを重視しているのだ。
 源信の『往生要集』が九八五年、法然の『選択本願念仏集』が一一九八年、この二百年の間で、時代がより困難になったのか、僧侶に凡夫の苦しみが身近となったのか、法然では、「菩提心」より阿弥陀仏の「宿願力」が重視され、口称念仏によって「浄土」に生まれることのみ説かれ、そこで「仏」になることについては触れられない。

天地の創造とエデンの園

 旧約聖書*1を読むと、『創世記「天地の創造」』で、アレッ?と思います。いつごろはじめて読んだのか、記憶は定かではありませんが、どういうことなのか理解ができませんでした。

 初めに、神は天地を創造され、そして神は言われた。「光あれ。」神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。第一の日である。

 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。第二の日である。

 その後も天地の創造は続きます。

 神は言われた。「我々をかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女を創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ。地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地に這う生き物すべてを支配せよ。」神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。第六の日である。

 天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なすった。

 めでたく、天地が神によって創造されました。しかし、それで終わりではありません。

 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。

 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところに連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

 これがどういうことなのか、わからなかったのです。天地は完成し、男と女をも創造されて、満足されたのに、そのうえでアダムを造られるッテ、どういうことよ、という感じです。以下は、わたしの勝手な読みです。

 神は「我々をかたどり、我々に似せて、男と女を創造」します。一方、主なる神は、「人を作り、息を吹き入れられ、生きる者」としました。神と、主なる神と使い分けられていますし、神は「我々」と言われているように、複数であると想像できます。「神」は似姿として、男と女を創造しますが、「主なる神」は、ただ、アダムを形づくり、生きる者としました。アダムの手本となるものは、どこにも示されていません。神と主なる神、別の次元でのお話、とすれば分かりやすくなります。

 まず、神が天地万物を完成させます。いろんな地域にある「この世の始まり」についての神話と同じで、ただ抽象度が高いだけです。そして、その天地があまりに立派だったので、「主なる神」が「エデンの園」を設け、自らの意にかなうものを囲い込もうとしたのでしょう。「神々による世界」と「主なる神による世界」、各々の成立の起源が語られているのです。神々による世界に「主なる神」によってエデンの園=楽園がもたらされたのでしょう。

 余談ですが、女はアダムのあばらの一部を抜き取って、造り上げられた、というのは、フェミニズム的にはどうとか、と目にしたことがあります。けれどアダムだって、あばら骨の一部を抜き取られて、死んじゃったんだろうし、その跡を肉でふさがれて、リボーンしたのでは、と考えられそうです。アダム=人間、マン=人間と同じようにその語彙には不満を待たれるでしょうが。

 人と妻は、二人でエデンの園に住むことになるわけですが、神が連れてこられたのは、「人」だけで、彼一人だけが、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」と主なる神から言われます。女はその後に造り上げられたので、直接それを、神から言われた様子はありません。彼女は主なる神によって人のところへ連れてこられ、二人は結ばれて一体となったわけですから、彼に言われたたことは、彼女にも……ということでしょうか。

 そして、蛇の誘惑に負けて、女は善悪の知識の木の果実を食べてしまい、男にも渡し、彼も食べてしまいます。それを知った主なる神は呪いの言葉をかけました。

 「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神はアダムと女に皮の衣を作って着せられた」。そして、エデンの園から追い出しました。

 追い出されたのは、もちろん「神がお造りになった天地」へ、です。そして、アダムとエバはそこで暮らすわけですから、もともとそこに住んでいた男と女、と同種のものとなって現れた、のではなくてはなりません。ということは、主なる神は「神が創造した男」をモデルとしてアダムを形づくられたと言えそうです。そして、今でもエデンの園は至る道をケルビムと、きらめく剣の炎に守られて、たどり着けない場所としてあるそうです。

 わたしたちは全て、「神のお造りになった世界」に住んでいますが、私のようにエデンの園とかかわりを持たない、神をかたどって創造された男と女の子孫と、かつてエデンの園に住み、追放されたアダムとエバの子孫、の二つの系統がある、ということになります。信仰の面からは、あっちからこっちへと移ることがありますが。

*1:新共同訳

借金大国の公務員

  西村康稔経済産業相に対する同省の内部文書「対応マニュアル」、まあ「忖度」の手引きですね、そういうものが存在しているそうです。「西村経産大臣出張時の注意点【取扱注意】」という表題らしく、八月の福島県出張に合わせて作成された、と言われています。内容は、以下のものであると伝えられています。
  
  移動中の車内での資料説明のために、幹部には手持ち資料をあつめに持たせる。
  モバイルプリンターの持参は必須。
  購入した土産品のための荷物持ち人員が必要。
  会計のための複数人員による対応。
  保冷材の購入および移動社内の冷房は必須。
  弁当購入部隊とサラダ購入部隊の二手に分かれて対応。
  
  大臣の出張ならば、少なくない人員の帯同が必要になるでしょうから、非難するほどのことでないように思いますが、その内容をみれば、この人たちには、「日本が一二〇〇兆円以上の借金をかかえ、それは、GDPの2.4倍近い、という借金大国、である」という不安がないのでは、と不信感を抱いてしまいます。

 政治家や官僚たちは、上級国民(よく見かける用語というだけで、理解はしていません)で、「日本の破綻の様相があきらかになってきても、自分たちは生き残れるだろうから、問題なし」という無意識があるのでは、と勘繰ってしまいます。今のところ、それなりの生活を維持できている私でさえ、何か想定外のことがあれば、という不安はありますし、これから数十年生きてゆくであろう若い人たちの将来は……と気がかりになります。そのようなことは「他人事」という認識しか持たれていないのでは、という断絶が見えるようです。

  政治家をはじめ、公務に携わっている人たちの給料は、言うまでもなく税金によって賄われています。それには私のようにある程度恵まれた環境にいる者だけでなく、ぎりぎりの生活を強いられている方たち(納税額は少ないが、負担感は大きい)のものも含まれています。対して、有力者と言われている層の人たちは大きな資産がありそうだから、国民の税金によって収入を得ている、という実感が薄いのかもしれません。
  さて、話は変わりますが、日本の国家予算について調べてみると、公務員総研というホームページがありました。”日本の「国家予算」とは”という解説ですhttps://koumu.in/articles/864。公務員の高みを目指すための情報サイト、と謳われていますので、以下の抜き書きのようなマインドを持っておられる、と推測されます。 

この特別会計は200兆円規模だと言われており、一般会計の金額をはるかに超えます。なので、一般会計と合わせると、現在の日本の「国家予算」の合計は300兆円規模ということになります。
 

「国家予算」の収入の40%程度を国債=国の借金が占めています。
  
  例えば、インフラを整備するとその年だけではなく、その後数十年に渡って恩恵を受けることができます。このように、将来に対する投資は、単年度の予算のみに頼るのではなく、国債などによって財源を確保して、将来にわたって恩恵と費用が発生するようにすることが妥当です。
  もし、国債ではなく増税によって財源を確保しようとすると、ビジネスや国民の消費活動が消極的になってしまうので、結果として経済が衰退して、想定よりも税収が下がってしまうということも考えられます。
 
  今回紹介している歳出は一般会計の歳出ですが、平成28年度の歳出は約100兆円で、そのうち3割以上を占めるのが社会保障関係費です。その次に多いのが国債費、地方交付税交付金となっています。
 
  例えば、教育に費用を投下すれば、いずれ手厚い教育によって高度な知識や技術を身につけた人材が年収の高い職業に就いて納税、という形でリターンを得られるでしょう。
 同じように、科学技術への費用投下についても民間企業の国際競争力が高まれば、納税や雇用という形で国の繁栄に貢献します。
 一方で、社会保障関係費は少子化対策費を除けば、ほとんど予算を投資してもリターンを得ることはできません。
 つまり、社会保障関係費は年金や医療費になって無くなってしまうお金なのです。よって、重福祉政策のために国債を発行したり、増税をするというのは非常に危険と考えられます。

 

 地方自治体の行政の仕事では、国からどのように予算を獲得するかということが重要だと言われることがありますが、本質的に求められているのは地方が自立することです。
 国からの予算の獲得は地方公務員にとって本質的に重要な仕事ではなくなっていくと考えられるので、注意してください。

 

 特別会計についての国会審議は一般会計の審議に比べるとずっと少なく、また、余ったお金の過剰な積み立てが事実上可能なことなど、課題は現在も残されています。
 国家予算の特別会計は所管大臣、つまり管理する省庁の担当者でないとわからないと言われるほど複雑な計算になっていることもあり、まだ国会や国民のチェックが十分に行き届いているとは言えない状況です。
 このように国家予算の特別会計は、一般会計以上にチェックが働かないので、改革後もブラックボックス化していると言われたままの状態が続いています。

 いかがでしょうか。リンクも適切に張られていて、使い勝手もいいサイトですし、「公務員の論理」についても参考になるので、一読をお勧めします。