サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

バイセクシュアルとアイデンティティ

  以前、拙ブログで「性自認が一致していて異性愛者である」という多数者の自己認識が、たまたまそうであると思い込んでいるだけのものであるかもしれず、そうでなかったかもしれない、という可能性もあるのでは?という趣旨のことを述べました。そこから展開してみた「試論」のようなものを書いてゆきたいと思います。

 性対象を持つとすれば、その対象は同性と異性とがあります(過度にフェティッシュなものは考慮に入れません)。それを私たちは、ホモセクシャルヘテロセクシャルバイセクシャルとして自己に当てはめます。しかしそれは、よくいわれているように近代のものでしかありません。

 森本あんり『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』(新潮選書2020)からの以下の引用を参考にします。

 聖書に旧約と新約を通して、「同性と性交してはならない」という定めがあるのはたしかである。だが、そこで想定されているのは「同性愛」ではなく、「同性間性行為」であり、しかも「異性愛者の行う」同性間異性行為である。聖書は、「同性愛」という事態を知らない。
 「同性愛」が人間の性愛の一形態として認知されるようになったのは、ほんのここ百数十年にすぎない。十九世紀までの長い間、人間はすべて異性愛者として生まれ、異性愛者として存在すると考えられてきた。同性間で行われる性行為は、もっぱら異性愛者があえて行う倒錯行為と見られてきたのである。聖書が禁じているのは、この行為である。異性間でするのが自然な行為であるはずの人が行う同性愛行為なので、不自然と断じられた。
  (91頁)

 同性愛者という認識がなければ、そして異性愛者だけならば、異性愛者を規定できないはずなので、異性愛者との認識もありえないのでは?同性があり、異性があり、性行為があるだけなのでは?とは思いますが、それで断罪されるにしても、愛や特別な嗜好の傾向ではなく、同性間の性行為にすぎなかった行為が、近代以降、同性愛として認識化され、同性愛者として属人化されて偏見の目で見られるようになったと、引用から読み取れます。

 そこから性の対象を、同性または異性または両性としているものとしてのホモ・ヘテロ・バイなどの自己規定が生じてきたのでしょう。アイデンティティですね。私であれば、「男性で異性愛者」というアイデンティティですね。今のところは、これが社会的カーストの上位にあることになっているので、自らのアイデンティティを意識しないで、多くのことをやり過ごせます。しかし女性である場合、多くの場で女性であることを自覚させられてしまいます。同性愛者も社会に通用している規範によって、それと意識させられます。社会によって、問題化のカテゴリーとして各々がそれに向き合わされているのです。これがジェンダー問題の基盤であると考えています。

 しかし、ここであつかっているのはジェンダーでなく、「セクシュアリティ」です。

 言わずもがなですが、ホモ・サピエンス排卵期は隠されており、発情期はないとされていて、「性」は隠れた場所で営まれることが前提となっています。そして「性」に関するイメージに、性的欲望は突き動かされています。隠されたり規制されているからこそ求める、という側面が大きいわけです。本能を見失い性的に倒錯している、といわれる所以ですね。その性的に倒錯しているものが同性を求めたり異性を求め、それを社会的に愛としてカテゴリー化され、属人化しているのです。そして先に述べましたように、個人がアイデンティティとして受け入れ、固定化します。

 いまだに、私たちは「性的に異性を求める」ものである、という社会的刷り込みを持っています。そして、異性に感じず同性に魅力を感じるものは「世間とズレている」と自身が「おかしいのでは」と不安にかられます。では、「異性に性的魅力を感じる」というのは正常なのでしょうか。倒錯した欲望の発現に「正常」というものはあるのでしょうか。倒錯してるにもかかわらず、そこに規範を求められるものなのでしょうか。性行為は同性とも異性とも行うことが可能です。ということは、私たちは可能性としてバイセクシャルなのであり、「バイセクシャルです。表現型はヘテロセクシャルですけれども」となるのかもしれません。

 

「利他」とは何か 若松英輔による

 少し厄介です。民藝や手仕事はいいものだと思っています。しかし、それらにおける「美」などといわれると、自分がかかわれる範囲を超えているように感じてしまう。たとえば私には、民藝や手仕事によるものと工業的な製品と、大量生産のいかにもな物は別にして、見分けられない、と確信を持っていえます。

 若松が民藝について柳宗悦によりながら述べているのを要約してみます。〈柳は「器」は、生物と異なるが、「いのち」あるものだと考えており、いのちが宿るとき、そこに奉仕の心もまた宿るということを、経験として実感するに至る。 そして、そこに「忘己利他《もうこりた》」が実現し、それには主張するべき自我はなく、どのように用いられるかを人にゆだねている〉。そこから利他・美が現出するものだそうです。「知」としてしかわかりませんので、重要なキーワードでしょうがスルーします。

 まず、仏教の言葉をとおして「利他」が説明されています。

 「利」とは、現世利益《げんせりやく》(ご利益にあずかる――幸運な人の福が自分にもさずかるよう願う、というようなことでしょう)ではなく、現世に終わらないよき働きが含まれている、と述べています。私なりの解釈ですが、「利」とは現世的でない場所で実現するものである、と信じることでもたらされるものなのでしょう。

 つづいて「他」については、自分以外の他者ではなく「自」と「他」の区別を超えた存在だ、と述べられています。それは、「自」があって「他」がある。そこに「それ」が生じることで、この二者とそのつながりを含めた「一なるもの」になる、ということでしょうか。またこれを、「自他不二」という言葉を使っても説明しています。この言葉は自他が一つになるのではなく、自他が二者のままで「不二」になる。数量的な一を超えた、「一なるもの」として存在するという意味です。むつかしいです。二者が「一なるもの」を共同することで再生した存在としてある、ということかしら。これもあいまいな表現ですね。

 上記を理解する手引きとして参考になりそうなものが挙げられています。まずは列挙します。
 〈本は読まれることで書物になる〉
 〈利他とは個人が主体的に起こそうとして生起するものではない。…自他のあわいに起こる「出来事」だともいえます。…マザー・テレサのような人であれば、躊躇せずに、神の助けこそが不可欠というでしょう〉
 〈自分を語る前に、他者の声にならない声を聞こうとした〉

 これらを理解するのに、「テキスト性」という言葉が参考になります。

 本を読むときに、「読みたいことだけを読む」というスタンスにおちいりがちですが、真摯に文章に向き合えば、想定外の表現に出会います。それだけではなく、書かれていないことも読み取ってしまいます、読み込んでしまいます。有無を言わさず、テキストに取り込まれてしまう経験です。作者にとっても作品は発表されればそれは他者に属するものとなり、意図していない読み方にさらされます。それを意識しなければ、仲間内をしか想定していないかのようなソーシャルメディア上のものと同じようなもの、でしかありません。そして、発表されてしまえば、作者にとっても作品は他者として接するしかありません。また、書く過程であっても自身による「誤読」(?)が生じます。そこから書くことでの「気づき」が生まれてきます。これが「あわいの出来事」なのでしょう。

 それらをふまえて若松は、〈現代では、論理上の矛盾がないことが正しさの証《あか》しであるかのようになっていますが、…むしろ、矛盾が矛盾のまま表現できているほうが、よほど現実的です〉と現実を受け入れることの困難さと重要さを指摘します。

 余談ですが、そして直接関連もなさそうですが、森達也『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』(角川書店 2012)での石川幹人《まさと》の発言を連想しました。

…「夜中にだれもいないはずなのに足音がしたから地縛霊だ」ってなっちゃう。あるいは「写真を撮《と》ったら肩に手がのっていたけれど背後霊だろうか」とか。なぜ足音や手のひらを単体で考えられないのか。つまり現象をどうしても人格というか、ある意思主体に帰属させたくなる。…日常的な意志感覚の延長です  (308頁)

 私たちは多くのことを「日常的な意志感覚」に基づいて認識しています。しかしそれらは、そこからはみ出てしまうことでもあること、を「ひっかかり」としてあることを、認識しておかなければなりません。 

 これまた余談ですが、なぜ角川書店のものは発行日が和暦表記なのでしょうか、直感的にいつ頃の出版なのかわからないのに……。 

新聞休刊日

昨日、二月十四日は月に一度の新聞休刊日でした。サクッと目を通すくらいなものですが、毎日の習慣になっているものがないと、なんだか落ち着きが悪い。これには何年たってもなじめません。

新聞休刊日は、新聞の輪転機などのメンテナンスを月に一度行うのと、販売店にも休んでもらうためだ(販売店の方々も月に一度のメンテナンス、と設備なみのあつかいであるとの悪意の解釈も可能です)、といわれています。ではなぜ各社一斉なの?それは人口の少ないところでは一つの販売店が各社の新聞配達を行っているから、と説明されています。人口の絶対数が少ないので、一紙当たりの購読数も少ないから、専属では収入が少なくなってしまい、維持できなくなってしまう、というわけらしいです。しかし、新聞社にとっては休刊日に大きなニュースがあれば、と不安なだけじゃないの、号外なんて抜け道もあることだし、と「強者の論理」と疑惑視しがちです。号外を配るのは誰?手当は出るの?

売店全社で休んでもらうって、そんなの、年中無休で交代で休みを十分にとっているところいくらでもあるのだから、好意の強要(自己満足)でしかありません(親方はこんな私たちのことを気にかけていてくれるのだ)。

問題視のあり方がズレているのです。販売店はご存じのように配達だけではなく、集金や営業のほか準備(折込チラシの仕分けだけでなく最近はビニールに入って配達されれくる)とサービス合戦も受けおっておられます。新聞が購読され、読者の手に届くのはこの方々のおかげです。このような重要の仕事のわりに収入が少ない、というのが一番の問題だと思うのです。収入に余裕があれば、人員も休暇も増やせます。けれど、下請け業務だろうから立場が弱い。

木下武男が『労働組合とは何か』(岩波新書 2021)で関西地区生コン支部での興味深い事例を紹介しています。

 生コンを売る場合、安く売ろうとする安値競争を規制すればよい。だが当然、価格を統制する価格協定は、カルテルとして独占禁止法によって禁止されている。しかし事業協同組合だけは、中小企業等協同組合法によって適応除外なのである。この法律のもとで生コン協同組合は共同受注・共同販売を事業として展開した。     (241頁)

このような上下の系列関係の上部には、大企業が位置し、利益を得ている。大企業に対抗して中小企業の結束をはかることをめざさなければならない。そこでは、関西支部の経験が教えているように、産業別組合の働きかけによって、中小企業の連携がなされることが重要だ。(267頁)

上部の発注者は同等に近い質のものであれば、当然安いほうを選びます。受注者はどうしても仕事が欲しいから安値競争になります。利益ぎりぎりの、新規にとっては、のちの付き合いを考えればたとえ少々の赤字になっても、と考えてしまいます。まして、新聞販売店では親会社の提示されたものを受け入れるしか方策はありません。間違っても発注者は、これぐらいの金額なら想定の利益が得られるし、この金額で、と折り合う姿勢をとることはないでしょう。従来の資本システムの中に位置付けを求めるのであれば、自らの利益の最大化を志向へと方向づけられてしまいます。

どうしても発注者は単独で、受注は事業協同組合による共同受注・共同販売、というシステムに方向転換しなければ、ますます持てる者は多くのものを手に入れ、他の者との分断がより明確なものとなってしまいます。

 

書評について一言

 二月十二日の毎日新聞「今週の本棚」に作家・元外務省主任分析官である佐藤優による『キリスト教教義学 上』(著/近藤勝彦 教文館)の書評がありました。私は佐藤の著作から、思想関連のものを中心に(インテリジェンスやそのたぐいのものは私にはよく分かりません)多くのことを学んでいます。
 

 まず当該書の意義について、以下のように簡潔、有意に紹介されています。
 

 日本の代表的組織神学者である近藤勝彦氏(東京神学大学名誉教授、同理事長)による本書は高度な学術的内容を維持しつつ、神学を専門とする人以外にも理解できるようなていねいな記述につとめた作品だ。ちなみに組織神学とは、キリスト教の理論や倫理を扱う分野である。

 また、

 神学書は、著者のバイアスがわかるような形で書かなくてはならないのだ。近藤氏はプロテスタントの立場からキリスト教の教義を解説する。

 ここで、神学的に真摯に書き上げられた著作なのだ、と強調されています。人間中心(万能)主義のような自己中心の解釈でなく、伝統的に積み重ねてこられた「知」を受け継いでそこからの立ち位置で解説することで、倫理を表出できるものなのかもしれません。
 
 まとめの言葉がまたイイ。 

 人間はいつか死ぬ。その前提の下で生きている。また一人ひとりの能力、適性は全て異なる。その制約条件の中で誰もが無限の可能性を持つのである。神について知ることで、われわれは制約の下での自由を享受するのだ。

 これも人間中心(万能)主義への批判です。私は「無神論者」に分類される、という自己規定を持っていますが、「神」がわれわれ一人ひとりのその「在ることの」根拠とされるなら、それが神であるならば……。それへの信仰は持ちませんが、それを信じます。「われわれは制約の下での自由を享受する」ことへひらかれる道が、そこにこそあるのかもしれません。

 良書であることがひしひしと伝わってきます。しかし14,300円です。下巻も同じような価格とすると、3万円弱にもなってしまいます。思い切ってもなかなか手の出るものではありません。

 そのことで”いじけた”者の意見ですが、「読書人」や「読書新聞」などの書評専門紙などでの書評なら有意義なのでしょうが、一般全国紙での紹介でこの金額の書籍は、ごく一部の人への紹介にしかなりません。それでは書評者からの書評でなく、メッセージになってしまうのではないでしょうか(金額的に入手困難な書籍を書評として紹介されても、困ってしまいます)。書評は掲載側が「この書籍について書評を」と書評子に依頼(数冊の中から選択しているのかもしれませんが)しているのだと理解しています。ならば、自身の紙面の特徴を理解して候補をあげるべきではないでしょうか。
 
 しかし、佐藤によるこの小文は有意義かつ示唆に富むものです。引用したところだけからでも、それはうかがえると思います。

野党の役割

 以前は、NHKのニュースを見ていて気になったニュースがあると、後からサイトで確認できて便利だったのですが、NHKプラスの配信サービスが始まって以来、放送をそのまま配信しているだけのよう(配信サービスに加入していないので断言はできませんが)で、検索ができなくて不便を感じています。

 つい最近の「おはよう日本」でもそれがありました。交換留学生が新型コロナの影響で来日できなくて、留学生も大学も困っているというニュースです。朝だから時計代わりの聞き(?)流しでしたので、詳しくは見ていません。その印象からして、二月四日の毎日新聞夕刊にあった記事が参考になりそうです。以下に抜粋します。

 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、政府は外国人の新規入国を原則禁じ続けている。パブリック・ディプロマシー(広報外交)に詳しい東洋大の横江公美教授に、今の入国制限の問題点や、海外で広がる反発を日本人がどう受け止めるべきか聞いた。【聞き手・日下部元美】

 自分が教えている授業にも、日本に来られずにいる外国人の生徒がいる。大学教師として、何とかできないものかという気持ちに駆られる。

 一方で、今でも出国者は1日当たり1000~2000人に上るという。観光庁の推計によると、2021年の日本人出国者数は51万2200人で、単純計算すると1日に約1400人の日本人が出国している。観光旅行で出国すれば、当然帰国してくる。日本人と長期の在留資格のある外国人が自由に出入りできる中で、それ以外の外国人は入国できずにいるのだ。

 このため、出入国管理の現場では、入国者数を減らすためには不要不急の出国を見直すべきだという声がある。実際に現在、問題になっている「入国を求めている外国人」の絶対数は、それほど多くはない。出国を一部制限し、そこで抑制した分を入国者枠に少しでも回すという考え方もある。一律で長期間にわたり入国を禁止するのではなく、時期と状況に合わせて政策に緩急をつけるべきではないか。今思えば、国内の感染者が少なかった昨年の10~11月に、できるだけ緩和すべきだった。

 日本の水際対策は、外国人には非常に厳しいため「日本人は自分たちさえ良ければ、それでいいと思っている」というメッセージとして伝わっている側面がある。現に海外に遊びに行ける日本人がいる中、家族と離れ離れになっていたり、1年以上も日本に入れなかったりする外国人がいる。これは明らかにフェア(公平)ではない。

 ところが、今の外国人の入国制限は列に並んでも入れないどころか、どこに列を作ればいいのか分からない状況だ。こうなっている背景の一つには、政府の国民への説明不足もある。空港の出入国の実態を知らされていないため、議論もできず、ただ国民は入国緩和にやみくもに反対している状態だ。

 ――「『自分たちさえ良ければ、それでいいと思っている』と見られても構わない」「それの何が悪いのか」と考える人も相当数いるようだ。

 実際、そのような考えをする人は、「家族さえ」「自分さえ」と全てのことにおいて同じような考え方をするのだろう。これは、人間関係に対する考え方と同じだ。「自分たちだけが良ければ、それでいい」と考える人と仲良くなりたいだろうか。そういう人からは人が離れていき、結果として、仲間外れになるのではないか。

 

 ご指摘の通りで、これこそがグローバリズムなんですね。
 
 同じく最近のコロナ関連で、オミクロン株の蔓延しはじめでは在日米軍基地との関連が報道されていました。政府は感染予防への日米の対応の温度差を指摘し、米国に遺憾の意を表明しました。その時、私は思わず「ここで日米安保条約地位協定を問題に取り上げなくてどうするの!せっかくの機会なのに」とツッコミんでしまいました。
 
 この二件のような事例について、野党はきちんと問題視するような感性を持っていただきたいものです(残念なことに、わが国には「志の高い」野党は存在していません)。別に政権を取らなくても、政治を動かす手段はあるはずです。選挙に勝つなどの結果は、自民党公明党など、政権志向の勢力に任せておけばいいのです。野党の、そして良心的な政治家は地道に耳を傾け、真摯に正論を訴え続けて政府に圧力をかけて、動かすよう仕向けるものです。選挙活動のために政治に携わるのではありません。ときには、国民にとって辛口であることもおそれずに。

野党の役割

 以前は、NHKのニュースを見ていて気になったニュースがあると、後からサイトで確認できて便利だったのですが、NHKプラスの配信サービスが始まって以来、放送をそのまま配信しているだけのよう(配信サービスに加入していないので断言はできませんが)で、検索ができなくて不便を感じています。

 つい最近の「おはよう日本」でもそれがありました。交換留学生が新型コロナの影響で来日できなくて、留学生も大学も困っているというニュースです。朝だから時計代わりの聞き(?)流しでしたので、詳しくは見ていません。その印象からして、二月四日の毎日新聞夕刊にあった記事が参考になりそうです。以下に抜粋します。

 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、政府は外国人の新規入国を原則禁じ続けている。パブリック・ディプロマシー(広報外交)に詳しい東洋大の横江公美教授に、今の入国制限の問題点や、海外で広がる反発を日本人がどう受け止めるべきか聞いた。【聞き手・日下部元美】

 自分が教えている授業にも、日本に来られずにいる外国人の生徒がいる。大学教師として、何とかできないものかという気持ちに駆られる。

 一方で、今でも出国者は1日当たり1000~2000人に上るという。観光庁の推計によると、2021年の日本人出国者数は51万2200人で、単純計算すると1日に約1400人の日本人が出国している。観光旅行で出国すれば、当然帰国してくる。日本人と長期の在留資格のある外国人が自由に出入りできる中で、それ以外の外国人は入国できずにいるのだ。

 このため、出入国管理の現場では、入国者数を減らすためには不要不急の出国を見直すべきだという声がある。実際に現在、問題になっている「入国を求めている外国人」の絶対数は、それほど多くはない。出国を一部制限し、そこで抑制した分を入国者枠に少しでも回すという考え方もある。一律で長期間にわたり入国を禁止するのではなく、時期と状況に合わせて政策に緩急をつけるべきではないか。今思えば、国内の感染者が少なかった昨年の10~11月に、できるだけ緩和すべきだった。

 日本の水際対策は、外国人には非常に厳しいため「日本人は自分たちさえ良ければ、それでいいと思っている」というメッセージとして伝わっている側面がある。現に海外に遊びに行ける日本人がいる中、家族と離れ離れになっていたり、1年以上も日本に入れなかったりする外国人がいる。これは明らかにフェア(公平)ではない。

 ところが、今の外国人の入国制限は列に並んでも入れないどころか、どこに列を作ればいいのか分からない状況だ。こうなっている背景の一つには、政府の国民への説明不足もある。空港の出入国の実態を知らされていないため、議論もできず、ただ国民は入国緩和にやみくもに反対している状態だ。

 ――「『自分たちさえ良ければ、それでいいと思っている』と見られても構わない」「それの何が悪いのか」と考える人も相当数いるようだ。

 実際、そのような考えをする人は、「家族さえ」「自分さえ」と全てのことにおいて同じような考え方をするのだろう。これは、人間関係に対する考え方と同じだ。「自分たちだけが良ければ、それでいい」と考える人と仲良くなりたいだろうか。そういう人からは人が離れていき、結果として、仲間外れになるのではないか。

 

 ご指摘の通りで、これこそがグローバリズムなんですね。
 
 同じく最近のコロナ関連で、オミクロン株の蔓延しはじめでは在日米軍基地との関連が報道されていました。政府は感染予防への日米の対応の温度差を指摘し、米国に遺憾の意を表明しました。その時、私は思わず「ここで日米安保条約地位協定を問題に取り上げなくてどうするの!せっかくの機会なのに」とツッコミんでしまいました。
 
 この二件のような事例について、野党はきちんと問題視するような感性を持っていただきたいものです(残念なことに、わが国には「志の高い」野党は存在していません)。別に政権を取らなくても、政治を動かす手段はあるはずです。選挙に勝つなどの結果は、自民党公明党など、政権志向の勢力に任せておけばいいのです。野党の、そして良心的な政治家は地道に耳を傾け、真摯に正論を訴え続けて政府に圧力をかけて、動かすよう仕向けるものです。選挙活動のために政治に携わるのではありません。ときには、国民にとって辛口であることもおそれずに。

男性で性自認一致で、異性愛者

性的志向では、主体側に二つの性、対象も二つの性の四通り(バイセクシュアルを含むと六通り)のパターンがあります。

私は、といえば、男性で性自認が一致していて、女性を性対象としている、大雑把にいってしまうとこれが私のセクシュアリティになります。なんとも陳腐なものです。異性愛者でアバウトに性自認が一致していて、今の世の中でも、規範の多くは男性の立場から設計されており、それが支配的です。ということは、スタンダードであり、優位な立場にあることになります。それでも、言い換えれば以下のような限界がある、ということになります。
  男性であるので、女性であることを実感できない。
  性自認が一致しているので、一致していない人たちのことを理解できない。
  女性にしか性的魅力を感じないので、それを男性に感じる感覚がわからない。

ことさらに取り上げると、窮屈なものですね。どうしても「なぜ」がつきまといます。たとえば、生物学的性差は生まれつきのものだから、生物学的性差として、ただそうあるだけです。ではなぜ、その存在の要因が生物学的なものだけでないのにもかかわらず、私たちは、それを当然のものとして受け入れられ違和感を感じないでいられたり、違和感を持ってしまうのでしょうか。なぜ異性を、同性を性的対象とするのか可能なのに、私は女性に性的魅力を感じ、男性にはそのような関心を持っていないのでしょうか。それは「先入観」や「すりこみ」にすぎないのでしょうか。また、異質なものを好むのか同質なものを好むのか、ということなのでしょうか。これらは説明できるようなことでないかもしれません。そうならば、「それはそうなんだから、なにか?」という面であらゆるセクシュアリティは同じ地位にあるといえます。

くわえて言うなら、男女のセックスでは子供が産まれますが、それを一般化してはいけません。必ずしも懐妊のためにセックスをしているのではないのだから。

私は男性であることは別にしても、異性愛者なのでマジョリティと定義されている領分に属していると言えます。でも、それを客観的に自覚できていません。そもそも「自分はマジョリティである」とは実感できるものなのでしょうか。私的な行為に関して、それでもなお「マジョリティである」と自己規定するのは、「マッチョ的」であるといえるかもしれません。 

私は「女性とセックスする」ことのみを望むマジョリティである。「女性とセックスする」?女性って一般名詞でしょう?特定の人とセックスしているだけです(若いころは自分の欲望に手いっぱいで、セックス相手を「女性」としてしか見ていなかったのかもしれない)。性行為とは、そのたびにリセットされ、はじめ直さなければならなく、一人一人、一回一回の具体的でマイナーな、不安がどこかに紛れている行為なのです。

余談になりますが、考えるまでもなく、同性は自分と近しい存在なので分かりやすく、異性はそのあり方を実感できず接近困難な存在です。それでもなお、なぜ異性を(性的)パートナーとするのでしょうか。肉体的快楽や、円滑なコミュニケーションを求めるなら同性の方が適しているのかもしれません。

そして、セクシュアリティという特殊なものは、「私」にとっての自分事でしかありませんが、無意識にもそれを基準にしがちです。生殖を前提としている、との誤解もあり、それが性的マイノリティと呼ばれる現象につながります。

公的として言えるのは、私は男性だから、レズビアンにはかかわることができません。また異性愛者だから、ゲイについて理解できませんし、しようとさえ思いません。ただ、そういう「あり方」もあってもいい、と認めることでしかかかわることができません。と、上から目線のような結論になりました。