サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

五瓣の椿

以前NHKドラマの再放送を録画していたのを観たとき、なんだか印象が違うような気がして、再読してみたことがあった。その時気が付いたのだが、単純に終章を読んでいなかっただけで、終章のないほうが余韻があってよかったように感じた。

山田宗睦の解説に
 〈法〉と〈掟{おきて}〉との葛藤というテーマは、ギリシア悲劇の主題の一つであった。アンチゴネーの悲劇はその代表的なものである。そして哲学者のヘーゲルは、『精神現象学』のなかで、このアンチゴネーの悲劇を分析して、神の〈掟〉を守るものが、人間の〈法〉によって死なねばならぬ矛盾を、ふかぶかとときあかした。山本周五郎が『五瓣の椿』でとりくんだのは、御定〈法〉も罰せられない罪がこの世にはあり、それを人間の〈掟〉から審{さば}くというテーマであった。
                         (二八三~四頁)


と、この物語を理性的に読みとることも楽しみだが、「おしの」の深みにひかれる。

物語は
 主人の喜兵衛はは養子だった。年は四十五歳、三年前に癆痎{ろうがい}で倒れたが、家付きの妻 おその は病気に感染するのを怖{おそ}れて看病は娘の おしの にまかせ、自分は寮のほうへ移った。それ以来ずっと別居生活が続いてい、店へは寄りつきもしなかった。
                         (六頁)


という状況にあるところから始まる。

人物描写を引用する。
 (おそのは)年は三十五歳。大柄{おおがら}ではあるが軀の線が美しく、胸や腰などは娘のようにすんなりしている。色はやや浅黒いほそおもての顔に、憂{うれ}いを含んだような切れ長の細い目と、やはり薄くて小さな唇許{くちもと}が、娘の おしの でさえ惚{ほ}れぼれするほどの、際立{きわだ}った魅力を持っていた。
                         (一六頁)
 ――お父つぁんの倒れるまではそうだった。
 父はいつも店に座っていた。同業者の寄り合いとか、祝儀{しゅうぎ}不祝儀とか、やむを得ないつきあいのほかには、殆{ほと}んど外出もせず、一人で店を守りとおして来た。
 「この座敷で」と おしの は呟{つぶや}いた、「あたしがおっ母さんとそんなふうに、いい気になって遊んでいるときでも、お父つぁんはうす暗い帳場格子の中で――」
                         (三九頁)

 

だんだん喜兵衛の病は重篤となっていくが、それでも おその は店へ寄りつかず、ひいきの子供役者と箱根へ遊びに行ってしまう。危篤になった父を おしの は寮へと運ぶが途中で亡くなる。そして、死体となった父を寮へ運び込み安置したところへ おその たちが帰って来、しばらくして、喜兵衛のそばにいる おしの のところへ おその が来て、死体に気づき怖れる。その身勝手な態度を非難された おその は。

 ……「あんたにはわからないだろうけれどね、おしの ちゃん、あたしとあの人が夫婦になったことが、そもそもの間違いだったのよ、お祖父{じい}さんに云われていっしょになったけれど、あたしが初めからあの人が好きじゃなかった、あんたの云うとおり、あの人はなんの道楽も知らず、朝から晩まで雇人といっしょになって働いたわ、まじめで、正直で、むさし屋を先代より繁盛{はんじょう}させたし、油屋の店も出すようになったわ、それはそのとおりだけれど、良人としては味もそっけもない、退屈でつまらない人だった、女の気持ちもわからないし、これっぽっちも面白味{おもしろみ}のない人だったわ」
 ……「――女というものはね、おしの ちゃん、自分のためにはなにもかも捨てて、夢中になって可愛がってくれる人が欲しいものよ、あたしのためならむさし屋の店も、財産もくそもないというほどうちこんでくれたら、あたしだってもう少しはあの人に愛情を持てたと思う」


                         
と、酒(と男?)に酔って、陶酔的に「私的語り」を云いつのる。このような語りには反論ができない、ただ「あげつらう」だけに終始してしまう。それをわきまえた おその は

 ……「あんたも女になればあたしの気持ちがきっとわかることよ」
                         (五六~七頁)
 

と言う。しかし、おしの は少女時代「茶屋へ役者や芸者を呼んで、ちやほやされ」て喜んでいたのであり、彼女の転機は父の看病にかかりきりになった三年にある。ちやほやされて喜んでいた少女はひっそりとした店の中で「女」の自意識が芽生えてくる。そのなかで、かつて茶屋で目のはしでとらえていた おその の媚態が想起されていたのであろう、自分には おその という名前に表象されている、けがらわしい「女である」ということへの潔癖さから生じた嫌悪。そして「女になってあたしの気持ち」をわかるのを拒む、という意思を強固にしてゆく。

その流れで、おしのは「不義の娘」であると告げられてしまい、親子の情を交えていた喜兵衛が義父である事実と おその の不義の娘であるという事実、それによって「不快感」でとどまっていたものが堰を切ってしまい、母の殺害を決意する。そして、どうしても許されない五人の男の、たやすく立ち入れず、あがらえないような稀有な女の魅力を前面に殺害へとおもむく。

殺害をおこなう おしの が内省する場面が本作のクライマックスであろう。

 われながら女はこわいものだと思う。息が止まり、眼の前がすうっと暗くなるように感じ、怖{おそ}ろしさのあまり叫びだそうとしたとき、青木さまが見ている、と気づいた。するとからだにあの反応が起こったのだ。乳房{ちぶさ}が重く張り、固くなった乳首が肌着{はだぎ}でこすれ、両腿{りょうもも}の奥が湯でもこぼしたかのように熱くなる。満ち溢{あふ}れたものが静かに解放されるときの、こころよい充足感、――恐怖はやわらげられて、自信とおちついた気分がよみがえってきた。青木さまに捻{ね}じ伏せられたときも、自分が勝つことをあたしは疑わなかった。なぜなら、あたしは「罪を犯していない」からであった。
 ……それも蝶太夫{ちょうだゆう}や得石{とくせき}を殺した、ということに罪を感じたわけではない。……あなたは おりう さんではないか、とあの女中の云った言葉のなかに、罪を感じさせるものがあったような気がする。
 ……
 ……
 ――はじめて蝶太夫を殺したとき、あたしのからだに二つの反応があった。ひとつは嘔吐{おうと}したこと、もう一つはあれだ。裸にして寄り添って、教えられたとおり、左の乳の下をさぐり、そこへ釵{かんざし}の尖{さき}を当ててから、あたしは力をこめて、両手でそれを刺し込んだ。
 ――あたしはむさし屋のおしの、……
 そして父の恨みを云おうとしたけれど、舌がつって言葉が出なかった。頭がぼっとなり、眼の前が暗くなった。すると急に乳房が痛いほど重く張り、固くなった乳首が肌着にさわるのが感じられ、両腿の奥が湯をこぼすように熱くなった。手のひらや足の裏に、むず痒{がゆ}いような、するどくここちよい感覚が起こり、軀{からだ}じゅうが痺{しびれ}れたようになった。
 ――拍子三つほどのあいだ、気を失ったような感じだった。
                         (一八四~五頁)

 

 


                         
聖なるものに魅了され、それを軀のうちに感じる「エクスタシー=聖女の法悦」が連想される。

ここでは聖なるもの=掟であり、喜兵衛が死ぬ間際に云った「おそのに、ひと言、――生きているうちに」という謎のような言葉に掟は根拠づけられている。それが謎にとどまるがゆえに、また彼女の倫理性を維持してゆくものとなる。それはフィクションであるがゆえに(おしのと喜兵衛の娘と父という関係がそうであるように)、当人にとっては強固なものなのである。

自らの軀に流れる色狂いのおそのと源次郎の血は、おしのにとって背負わされた原罪のようなもの。しかし、それは事後的なものであり、喜兵衛の言葉(謎)によってめばえてきたものでもある。それからの解放と救済という読みは少し強引すぎるか。
そして、おりうという名はおしのの原罪の化生なのであり、仮のものであり、脱ぎ捨てられるべきものである。それが女中に名指されることで、よみがえってしまう。

                  山本周五郎『五瓣の椿』(新潮文庫