自己責任論
10月24日に、2015年6月にシリアで拘束されたとされていた安田純平氏が解放されたとの報道があり、25日に無事帰国された。その彼に対して、「自己責任」などという批判があるようだが、これは「自己責任」という言葉の誤った使い方であると感じる。
「自己責任」というのは、利益などの利己的な目的の追求のために、あえてリスクをおかし、そのために困難な状況に陥った。という場合に使用されるものだ。あくまで、「利益などの利己的な目的追求」という場合にのみ論ぜられるものなのである。
安田氏のばあいだが、彼は「ジャーナリストの使命感」のような義務感があったのではないだろうか。それはいわば、公的な問題意識からのものともいえる。そして、結果を残すことができたならば、それによって彼は名誉を得ることができる。動機と結果という位相の異なるものを切り分けずに、成功かそうでないかという結果を重視し、自己責任論などに落とし込んでしまったのであろう。
繰り返しになるが、自己責任論とは、新自由主義やギャンブルなどにこそ適応されるものであり。新自由主義やギャンブルという限定的な競争社会での勝利第一の価値観の裏返しこそが「自己責任論」ではあるまいか。
ということは、安田氏の行為は「自己責任論」にはなじまない。ではなぜに。新自由主義的な価値判断になじみすぎてしまっている、としか考えられない。