サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

 二月十八日の毎日新聞朝刊に、『ナワリヌイ氏拘束1カ月 露政権へ不満のマグマ』という記事があり、その中での、

プーチン大統領の支持率も9割近かった一時期ほどではないが、60%台を保っている。レバダセンターのボルコフ副所長は「政権の腐敗への寛容さや(プーチン氏以外に)選択肢がないという感覚」といった「社会の惰性」や「無力感」が抗議活動の広がりを妨げているとの見方を示す。

 という指摘に「どこの国のこと?」と錯覚しそうになった。
 かの国は選挙がおこなわれているが、政権による強権的ともいえる体制をしいている。一方、我が国は「民主国家」と呼ばれる範疇に属しているが、現在、野党・与党を見てみると政権担当能力があるのは現政権しか思いつかない、「選択肢がない」というのが、多くの人たちの印象であると思う。記事の中のロシアと日本、「選択肢を示せない」という閉塞感で、同じような様相を呈しているように感じる。「無力感」についてはわからないが、「政権の腐敗への寛容」と「社会の惰性」は納得できる。「政権の腐敗」は強権的であることからの派生だろう。なぜそれに対して「寛容」でいられるのか。
 寛容であるとは、

……自分が反対している意見を聞かされる毎日が本当に訪れたら、やはり最後には我慢ができなくなってしまうのではないだろうか。そう考えて堂々巡りを始め、しまいには頭を抱えて誰もが押し黙ってしまうことになるのが、寛容というテーマである。
 (森本あんり『不寛容論』新潮選書 2020)

  多くの日本人と同じく、私も「単一的な」社会の一員である。身近に価値観・境遇の大きく異なる方はいない。それでも例えば、近所にイスラム教徒の方がいても、近所付き合いはできるだろうし、信仰に敬意を払うことだろう。また「イスラム学」に対して批判もあるが、優れたものだと認識している。しかし、ムスリムの方が信仰心をもって私の領域へと介入してきたら、それを受け入れることはできない。
 つまり、

……寛容とは自分と違う人や自分が否定的に評価する人を受け入れることなので、自分が無関心でどうでもよいと思っていることに対しては、寛容にも不寛容にも慣れない。だから日本は、寛容でも不寛容でもなく「無寛容」なのかもしれない。
 (同前)

 「無寛容」とは、うまく形容していると納得させられる。
 安倍政権から続く、アカウンタビリテイ(説明責任)無視と、現在の地位のなかで生き残るための忖度重視によって維持される、強権的とも形容される体制、そして、維持してゆくための人文科学や大手メディアへの干渉なのだろうか。この現状への私たちの「無寛容」を支持に転換し、拍車をかけているのかもしれない。