サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

有権者の審判

菅政権にとって初の国政選挙が25日、参院の広島選挙区再選挙と長野選挙区補選、衆院北海道二区補選が行われ、自民は北海道では候補擁立を見送ったが、三選挙区とも野党候補が勝利した。

参院の広島再選挙と長野補選でいずれも自民候補の落選が確実になったことを受けて、自民党山口泰明選挙対策委員長は午後10時半ごろ、党本部で記者団に「残念だが、この結果は有権者の審判。しっかり厳粛に受け止めて、今後の色んな選挙にも反省を踏まえ、やっていきたい」と語った。

 自民は擁立を見送った衆院北海道2区補選も含めると「3敗」となった。山口氏は広島と長野の結果について「負けに不思議(な負け)はない」とした上で、「謙虚に反省しながら、しっかりと検証していきたい」と述べた。

        朝日新聞デジタル2021年4月26日 0時36分

投票率は広島が33.61%、長野が44.40%、北海道が30.46%であった。このような投票率で本当に「審判」があったと受け止めているのだろうか。それは、建前上の見解であるように思えてならない。ただ、選挙で勝てなかったのだから、それを受け入れるしかない、という当然のことを述べているだけではないのか。いきなり選挙で「有権者の審判」が下されたわけでもなかろうに。いや、有権者は選挙という手段によってのみ、でしか「政治に影響を及ぼす」ことができない、という論理に自他ともに支配されているのではないか。

政治家をはじめ公務に携わる者たちは、全体への「奉仕者」なのであり、それだから「先生」と敬意をこめて尊称されている。それを自らに「権威」が備わっているものとはき違えてしまっているように見受けられる。いわば「エリート意識」「選抜意識」による上から目線なのだろう。だから、彼らにとって選挙は自らを誇示する「お祭りの場」と化してしまっている。不自然な表現だが、審判をアピールの手段とし、自ら有権者へデザインされたものをそれのために提示する。有権者の唯一と思い込まされている政治参加の手段としての選挙を、候補者の手段と化し、アリバイのようなものへと歪曲してしまう。

こんなことでいいはずがない。よく政府の方針を金科玉条のようにし、それへの批判を抑え込もうという権威主義的な勢力もある。よしんば、その「権威」を認めるにしても、その「権威」の「根拠」は私たち「市民」にある、ということを大きくアピールすることが何よりも「民主的」な姿勢だろう。