コロナの意味
前もって断っておきますが、小谷野敦の文章は読んだことはなく、人と接している日々の私の言動を直後、自身のことを「性格悪っ」とイタイ思いをすることがある。
去年の秋に大腸ポリープの手術を受けたとのことで、「検査の9月6日から診断が出た11月10日まで、ほとんど寝ていました」とある。同じ経験のあるしがない会社員である私と比べれば「特権的地位にある恵まれた人」という印象を持つ。いつもどおりの生活と仕事をしていたのですから。また、「大腸ポリープの手術」とはどういうものかわからないが、検査の流れは、便潜血が陽性との通知があり、内視鏡検査でポリープが見つかり、後日内視鏡でのポリープ切除とその組織検査となっていた(ポリープ切除後の2週間は禁酒と教えられていたので、いつも以上にお酒を飲でいたので体調不良のせいか苦しい思いをした)。私の場合、長年胃カメラで検査を続けており、2~3年ごとに組織検査を受けている。それだけでなく、いつだったか「リスクの高い胃」と指摘されているので、結果が出るまで不安を持ちながら日常生活を送っている経験があるので、感覚がマヒしているのかもしれない。
「どの道、本物のウイルスに対して人文学は無力なんですよ。それにコロナはペストほどの脅威ではないですから」。そのとおりというほかない。ワクチンや治療薬は開発されようが、ウイルスそのものを根絶するのは不可能なのだから、あらゆる学は無力で対処法的でしかない。脅威とは致死率をふまえてのことであろうが、解明されていない感染症では特定の個人が「死」の「脅威」にさらされている場合が切実なのであり、統計的数値でどちらが脅威であるのかを比較する必要はない。
「自粛という言葉がどうも良くないと思っていて、始まりは昭和天皇の(崩御前の)時でしょうね。必要ないのに人々が勝手に始めたという意味で自粛だった」。同世代である私はそのような印象を持っていない。公の場である社会に自粛の雰囲気はあったが、個人レベルでは普段と変わらずユルイものであった。崩御の時(1989年1月7日)は多くの会社や商店などが休みで街中はひっそりとしていて、テレビ番組もNHK教育以外は特別番組だったが、レンタルビデオ店で見たことのないくらいのレンタル中の表示があったそうだ。いつもどおりの休日を過ごしていただけ。
浅田彰の「土人」発言や同年2月15日に『天皇制と国民主義』(新日本出版社編集部)という批判的な本が出版されている。その自粛(?)雰囲気を「異様で不気味である」と保留する認識もありえた。
以下は記事が発言の抜粋のせいか真意不明なところをコピペしておく。
マスクしてないと非難するのは過剰だ、自粛警察だと批判されていますが、違う気がする。自粛警察になっちゃう人の不安に寄り添ってもいいと思う。
大学の教員でコロナによる死者が出ましたが名前が公表されないのもまた妙な感じ。遺族の気持ちを配慮してなどと言っているが、いつまで隠し通すのか。変な秘密主義に映ります。マスコミが遺族の取材に殺到するのが嫌なのだ、という理屈はわからないでもないんですけど。
コロナについては「もう耐えるしかないという意味以上のものはない」と言う。「意味をつけようとする人もいる。意味のなさに耐えつつ、経済や地球環境を考えましょうと。コロナの初期に『今こそ読書の時』と言う人がいましたが、商売をしている人はそんなことは言っていられないから、ずれているんですよ。
でも、ネット上のバッシングは見なければ済んじゃうんですよ
ミヒャエル・エンデの『モモ』は時間に追いまくられ、あくせく生きるのはやめようという話ですが、現実にはそう言ってはいられない。『モモ』をほめてた人は反省しないといけない。経済成長はいらないという人もいますが、成長することで現状を維持し、格差も抑え気味になるという仕組みもわかったのではないでしょうか