サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

再現されるシステマティック・レイシズム

五月二十五日にミネソタ州ミネアポリスの路上で、警官がジョージ・フロイド氏の首を膝で8分46秒おさえ続けて殺したことへの批判や抗議活動が、大きくなっている。このようないつまでもなくならない「systematic racism=制度化された人種差別」への批判は重要なことであり、敏感であらねばならない。(そもそも何故このような事態が起こったのでしょうか)

 

しかし以下の記事を見て、潔癖症とも言えそうな弊害を感じる。 

 米国の人気カントリーグループ「レディ・アンテベラム」は11日、バンド名が奴隷制を連想させるとして「レディ A」に改名すると発表した。米国では白人警官が黒人男性を死なせた事件を機に人種差別に対する意識が高まっており、グループは「言葉の意味合いに思いが至らず、恥ずかしく思う」などとしている。

 「アンテベラム」は英語で「南北戦争(1861~65年)前の」という意味。特に戦争前の南部の文化との関連で使われる。この戦争では、奴隷制を維持しようとした南部の州が、廃止しようとした北部の州と戦った。「アンテベラム」には南部の文化を懐かしむ響きがあり、その中に奴隷制も含まれる、との受け止めがある

              朝日新聞デジタル 2020年6月12日 8時25分

 

他にも「風と共に去りぬ」の配信停止(シャム王室を未開であるかのように扱い、タイで上映禁止になっている『王様と私』はどうなのでしょうか)、コロンブスや、南軍関連のものへまでが蔑視されている状態に不安を感じる。奴隷制を堅持しようとして戦った南軍の歴史は批判されるべきだが、象徴として現在まで残っているものまで嫌悪するのはいかがなものか。それは負の歴史と、南北統合の合衆国という歴史への軽視であると思う。いまこそ「アンテベラム」の象徴として、ウィリアム・フォークナー(「日本と南部はヤンキーに敗れた共通の歴史を持つ」との発言がある)を読み直してみる必要を感じる。

 

この事件に関連して、アメリカの警察官の特殊性に気がついた。銃社会であるアメリカでは一般人が警察官と同じく銃を持つことが可能だ。ということは、常に警察官は対応するにあたり、相手が殺傷力の大きな銃を所持しているのを前提としなくてはならない。日本では想像だにできない状況だ。

 

アメリカが「銃社会」であると認識を強くしたのは、1992年ルイジアナ州で、ハロウィンパーティーへと日本人留学生が仮装してパーティー会場に向かうが、間違えて他の家を 訪れてしまい、そこの家の主人に射殺されてしまう、という事件があった。映画のなかでのことと思っていたことが、まさか現実に、とも驚いた記憶がある(調べてみて二十八年も前なのに記憶は古びていない)。日本では大きく報道されていたが、アメリカでは関心を持たれなかった。銃が日常・身近なものであるのでそれへの警戒意識が備わっているからであろう。

 

このような事件が「起こりうるもの」として前提にされている社会で犯罪を取り締まっている警察官、繰り返される人種差別と過剰防衛の域さえも超えてしまう行動。そこに大きな関連があると感じる。抗議活動は重要で、大きなムーブメントへのきっかけともなりうるだろうが、そこに「何故」という問いかけが生じてこなければ一過性のものとしてすぎさってしまう。

 

しかし「差別」で殺害にまで至る行為ができるものなのだろうか。苦しんでいる人の首を八分余りも膝でおさえ続けることができるのだろうか。殺意に近いものがなくてはできないように思う。それは「差別」だけを要因としてかのうなのか。

かつて日本でも、一九二三年(大正十二年)九月一日の関東大震災下で、被害の類災への朝鮮人の陰謀という風聞にはじまった弱者への下手をすれば殺害へ及ぶような暴行、があったことを想起する必要がある。