サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

Little Games

 1970年代中頃から10年間くらい、ブリティッシュを中心にロックを熱心に聴いていた。それまではあまり音楽に関して、これといったお気に入りはなかったのだが、皮のジャンプスーツでベースギターを弾くスージー・クワトロのルックスにひかれたのだろう、今でいう「アイドル」視していた。後づけの記憶かもしれないが、「キャン・ザ・キャン」がそのはじめであったように思う。ということは1973年、繰り返すが、後から整理された記憶かもしれないので、確かではない。
 その後も歪んだ音を出す、騒がしい音楽をよく聴いていた。当然私がある種の音楽を受け入れられないように、それらの音楽を受け入れられない人がいる。いくら「あそこのギターが格好いい」とかいっても、「そこがダサいのだ」といわれる可能性もある。音楽を語るなどというのは、同好の者たちにしか通用しないものかもしれない。音楽について語る言葉を持てないでいる。
 
 
―――引用―――

 …正しいことは、正しいことによって守られるようではいけないのです。ただしいことは、つねにまちがっているかもしれない可能性が残ることでしか検証できないのです。これは「いい」と思うことはつねに無根拠であり、そのことの危うさにに身をさらすことと表裏一体でなければという意味のことを書いたのと、まったく同じです。美術においてそれを知ることができる唯一の場所が、作品の前です。
                                                                 椹木野衣『感性は感動しない』(四五頁)
 
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 カール・ホッパーの「反証可能性」から導き出された、示唆に富む解釈で、いろいろと考えさせられる。「いい」と思うことが無根拠とされるとは「良くない」とされる可能性をはらんでいる。同じく、「正しい」ということも「正しくない」という可能性にさらされている。いいかえれば、「正しい」とはつねに「正しさ」への検証によって留保されていなければならず、「いい」はその判断が無根拠であるということを作品を目の前にして実感されつつ、なお「いい」という判断しかできない、という状態であろう。そのような「宙ぶらりん」のような状態を強要する。
 
 というような長々とした前置き。最近のというか、熱心に聴いていた時以降の音楽には関心が持てなく、昔聞いていた、興味を持っていたCDばかりを再び購入しているが、今回はヤードバーズの「Little Games」。当然リアルタイムでは聴いていない。
 ヤードバーズエリック・クラプトン ジェフ・ベック ジミー・ペイジという三大ギタリストが在籍していたことで有名だったが、前二者の在籍時のものは耳にしていたが、肝心のジミー・ペイジ在籍時のものはジェフ・ベックと同時在籍のものしか触れることができなかった。なかでも、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「Blou Up」という映画で、破壊衝動に駆られるベックにたいして、リフにとりつかれたようなペイジが印象深い。それに、あのレッド・ツェッペリンでしょう!
 というような状況で、「Little Games」というペイジ在籍時の唯一のスタジオアルバムがあることは知っていたが、幻と呼ばれるようなアルバムであった。しかし現在、アマゾンで調べれば、LP版を購入できるようだ。隔世の感がある。
 幸運にも聴くことができたのは、NHK FMで流れていた渋谷陽一の「ヤングジョッキー」という番組。ほぼ毎週、ラジカセの前でポーズボタンを繰り返し押していたのに番組名は調べるまで思い出せなかった。NHKにはなくて自身の所有のものをオンエアーしていたように記憶する。曲名紹介をはさんで、A面・B面に分けてまるごと放送していた、という今から思えばなんとも過激なこと。もちろん録音していたが、聴きすぎというより、早送り、巻き戻しの繰り返しでテープがだめになったのを、CDにふれてその残念さをあらためて想い出す。