サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

辺野古問題和解

4日、普天間基地辺野古移設をめぐって、政府と沖縄の和解が成立しました。べつに何らかの展望が得られたようでもなく、お互いもっと冷静になってというメッセージかな、としかとらえられない。
そこで少し普天間基地問題について整理してみました。


普天間飛行場の滑走路は1945年にB-29戦略爆撃機に備えるために建設されたもので、2,700メートルの滑走路があり、兵員および物資の輸送にも活用できるように開設されました。
普天間飛行場は1960年に海兵隊航空施設として任命され、1976年に航空基地となりました。
   在日米海兵隊http://www.kanji.okinawa.usmc.mil/Installations/Futenma.html


1945年ということは本土決戦に対して、ということでしょう。1961年にはアメリカが軍事顧問団の派遣に踏み切った。そして1972年5月15日に「沖縄返還」です。周辺の住民は戦火が収まり、戻ってきたら飛行場がという感じだったのでしょうか。しかし危険度としてはさほどでもなかったために、街として成り立つまでに、と想像しています。

さて普天間基地返還の流れは、1995年9月4日に沖縄駐留米海兵隊員による少女暴行事件で、様々な抗議活動が起こってくる。そして1996年4月12日に橋本首相・モンデール大使共同記者会見、普天間飛行場の全面返還を表明。同15日、SACO中間報告。今後5~7年以内に、十分な代替施設が完成した後、普天間飛行場返還。
                         森本敏普天間の謎』参照、引用

全面返還表明の三日後に「代替案」の報告ですか。驚いてしまいます。

普天間飛行場は「世界一危険な基地」と呼ばれることもあるのですから、日本国憲法第25条「生存権及び国民生活の社会的進歩向上に努める国の義務」に照らしてみてもまず国は、住民への危険排除のために全面返還に勤める義務があるのでは。そしてその後に併合なり、代替施設の検討に入る、というのが正しいあり方だったと思います。
そもそも交渉の始まりから、ボタンの掛け違いがあって、その後もどんどん掛け違えていって、という気がします。典型的な当事者不在。