サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

ヨブ記 現世的な祝福

 旧約聖書にある『ヨブ記』を読みました。ユダヤ文学の最高作とされていて、後世に大きな影響を与えた、と言われています。様々な文学や思想関連の作品にインスピレーションを与え続けている、とも言われています。私も、『ヨブ記』について書かれた書籍を読んだことがあります。

 しかし、旧約聖書は拾い読みしたくらいで、物語化した要約的なものや、解説書のようなもの、でしか触れたことはありません。もちろん、タルムードには目にしたことさえありません。だから、ユダヤ教に関しては、何も知らないに等しいです。

 それからキリスト教イスラム教がうまれてきた、一神教の大本で、モーセ十戒と律法中心の生活、神との契約と選民意識、メシア(救世主)と神の国、というイメージを持っているだけです。

 この程度の知識ですから、しっかりとは読み込めていない、とは思いますが、読後感は、「これって、何が宗教的なの?」というものでした。キリスト教には、弱者の救済がありますし、イスラム教では、アッラーへの信仰に生きたものが天国へと導かれ、仏教は、煩悩による苦からの脱却し、悟りを開いて涅槃へと、儒教であっても、仁と礼による為政(善政)を敷くことで、民が思い煩うことなく安心して暮らす、といった「苦しむ者に救いを」に根差したものがあります。ヨブ記には、そのようなものを感じることができません。神は苦難をもたらしたり、祝福する存在です。

 以下、私の読み取ったあらすじです。
 
 ヨブという人がいまして、無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていました。妻と七人の息子、三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ロバ五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪でした。
 ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来ました。主は「わたしの僕《しもべ》ヨブは無垢な人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」とたたえるのですが、サタンは「ヨブの一族は、多くの財産と幸福を手に入れています。それを祝福だとしているだけですので、それらを奪ってしまえば、あなたを呪うにちがいありません」と答えました。主は「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな」と言いました。
 サタンは、ヨブの息子と娘、財産と使用人を奪いました。残ったのは彼とその妻だけです(報告に来た四人も?)。それでもヨブは地に伏して「わたしは裸で母の胎《たい》を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名《みな》をほめたたえられよ」と言いました。
 またサタンは、ヨブの頭のてっぺんから足の裏まで、ひどい皮膚病にかからせました。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしります。彼の妻は「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言い、ヨブは「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と答えました。
 サタンは自分の考える役目を果たしたのです。ヨブは自分の生まれた日を呪い、暗黒と死の闇を望む、と嘆きました。神により滅ぼされるのを望みます。
 そのあらましを伝え聞いた三人の友人が、ヨブのもとへお見舞いに訪れます。「ひどい目にあったよね」という感じでしょうか。「これも神による罰なのですよ、あなたも気づかぬうちに罪を犯しているのだから、身を慎まなければいけません」と言い、それにヨブは「わたしは罪を犯しておらず、神を畏れ、義《ただ》しく生きています」と答えました。三人とヨブによる対話というか独白は長々と続きますが、このような平行線のままのすれ違いです。
 ヨブは主に問いかけます。「なぜ試されるのか」と。主なる神は「神の御業の計り知れなさ」を強調しました。「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい」。ヨブは「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます」と答えました。
 その後も、神は自らの力を誇示し、ヨブは「わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」と答えました。ヨブは自らを、神の僕《しもべ》であるだけではなく、祝福されるべき者である、と信じていたのかもしれません、祝福は事後的なものであるのに。
 神は、三人の友人たちに対して、神意を忖度したため、怒りを向け、ヨブのところへ雄羊七頭ずつ引いてゆき、いけにえをささげれば、ヨブはお前たちのために祈るだろうと伝え、ヨブは祈り、その祈りは受け入れられました。そして、ヨブには以前に倍する富と幸福が授けられ、長寿を保ちました。
 
 流れとして、
 ヨブ=神に祝福されし者=富と幸福
 神による試練
 神への問いかけ
 神による一方的な和解
 再び、ヨブ=神に祝福されし者=富と幸福、の実現
 というものです。
 
 ヨブは長者であり、神の思し召しでいわれなき苦を受け、葛藤を経て神により救われます。私の浅い読みでは、これくらいの読み、しかできませんでした。しかし、不思議に思うのは、神による祝福が、世俗的な富と幸福にとどまっていることです(譬えとして、あえて、そういう物語なのかもしれませんが)。神によって、一方的に信仰を試される、ヤハウェへの信仰は、神との契約に基づくものだから、そういうものなのでしょうか。苦も幸も神の意志によって左右される、という理不尽なものなのかしら?神の意にかなっているかどうかは、現世での幸福度で表現される、という教えなのかな、と訝《いぶか》ってしまいます。

 キリスト教イスラム教は死後の天国を、仏教は死をはじめとする苦の無化を、儒教は死者を弔うことを、などのように、宗教は、畏怖している死や苦をなだめたい、という切実な願い、に端を発しているのであるから、現世的であるのとは別の世界観を示すものではないでしょうか。