サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

セクハラ 妄想への従属

 このところ週刊文春で、細田博之衆院議長のセクハラ疑惑が取りあげられており、女性記者に「彼氏いるの?」とか電話やメールで「いまから来ないか?」と誘ったりした、などと報じられています。議員と記者の関係は仕事上のものであり、かつ、身内に属しているわけでもないのだから、どういう状況で、なのでしょうか。まさか、公の場で特定の女性に「彼氏いるの」なんて言わないだろうし、私的な雰囲気の仮想の仕事(要するに、本人がそう思い込んでいるだけ)の場で、なのでしょうか。

 電話やメールにしても、議員は簡単に、仕事相手に対して私的な用件で連絡するものなのでしょうか(議員の連絡先などは機密事項というイメージがあります)。ふつう、このようなことは、仕事上の付き合いの相手にはしない、と思うのですが、心のどこかに「議員だったらやっちゃうかも」との不信もあります。

 ハラスメントとは「嫌がらせ」のことですから、例えば、好意を持っている人から「今から来ないか」と誘われれば、予定をキャンセルしてでも行きたいものですが、そういう関係を築いていない間柄では「うっとうしい」だけです。かように「ハラスメント」は行為の受け手の主観に左右されるものなのに、「どのような関係にあるか」を考慮に入れていないために生じる、と思われます。

 セクシュアルハラスメントはさまざまなケースがありますが、頻繁にあるとされている男性による女性への行為を主に、思いつくままに。

 両性の区別は筋肉・骨・脂肪・内臓・神経などの解剖学的な質の差、にあります。特に骨格筋や体つきで明確な区別ができます。カテゴリー化がしやすいのです。老若や体形などもカテゴリー化ができますが、どこで区切るのか、その線引きは曖昧です。そして、子どもは大人になったり、体形が変わったりするように固定したものではありません。対して、性別は生物的には固定されています。しかし、これらの特徴はあえてカテゴリー化したものにすぎず、大部分の要素は共通しています。いうなれば、「あらわれ」が異なっているにすぎません。

 そして、女性では多くの人の場合、人生のある期間に生理があり、セックスによって妊娠の可能性があり、出産、授乳、搾乳などの経験の可能性をもっています。

 今まで述べたことから考えれば、平均すれば解剖学的な質の差は、女性は身体の暴力装置の機能として性能が劣り、生理や妊娠・出産といった生理的な特質があります。しかし、それらは動物的なものでしかなく、個々の女性の人間性なのではありません。それでなのに、現実では、そのために社会的な不利を強いられ、弱者に固定されやすくなっています。弱者と認識し、性対象であるとしか見ない、この立場からなされるのが、セクハラだ、と思います。

 では性対象として見なす、とはどういうことなのでしょうか。たとえば、道を歩いていて前に女性がいた場合、女性と認識しますが、女性である、と意識はしません。しかし彼女のセクシーな装いや振る舞いに目が留まれば、女性である、との意識が芽生えます。私の中に「性的なまなざし」が想起させられてしまう、とでもいうのでしょうか、本来は受動的なものです。それをあえて、女性であることを意識させるもの、を見出そうとするのが、性対象として見なすということなのでしょう。内容の薄いテレビ番組の出演者を見ている見方、に近いかもしれません。テレビ出演者はルックス的なアピールの偏差値が高い人が多いでしょうし、見るだけのメディアですから。

 関心のあり方なのです。街を歩いていて、特別におしゃれな人を探しているわけではないですが、あの柄が、あのシルエットが、と目に留まることがあります。そういえばここ最近、若い女性がDrマーティン靴を履いているのが目に留まります。これは私の関心のあり方でしょう。しかし、目に留まるだけです。しばらくすれば忘れてしまいます。普段は広角レンズなのですが、関心がひきつけられれば、その点にズームする、というイメージでしょうか。

 目に留まることへの異常な固執、があるのかもしれません。ズームへの固執と言い換えてもいいでしょう。ズームすべきものが自身のなかに具体的なイメージとしてある、とでも言いましょうか。

 先にも述べましたが、女性である、というのは、動物的特徴でしかありません。しかし、彼女は、自らを性対象としている、相対的に身体(暴力)能力の高い男性という存在と向き合わねばならず、生理があり、セックスで妊娠するかもしれない、というアイデンティティをかかえた人生を歩まなくてはいけない、ことをセクハラ男性は見ようとしません。動物的側面としてしか見なしていないのです。(性の)道具や機械のように思っているのかもしれません。私にもそうした側面はあると思いますが、問題化するレベルにいたっていないだけでしょう(そもそも、人付き合いで距離を置きがちですから)。

 ある個人と接する際に、その人の多様性の中で「女性」であることのみを見、その視座を固定化し、そこにだけ「価値」を求めてしまう、ある女性を女性というイデオロギーとして固定してしまうのでしょうね。空想というか妄想です。それらは人間のみの能力ですが、それに従うのはアニマルめいていますね。