熊谷直実と専修念仏

 〈鎌倉殿の十三人〉つながり、というわけでもないのですが、治承・寿永の内乱(源平合戦)での源氏側に熊谷次郎直実という興味深い武者がいました。源義仲勢を滅ぼした源頼朝軍は、後白河法皇院宣を受け、西国で勢いを盛り返した平家を追討にむかい、一ノ谷を攻撃しました。そのころの坂東武者です。

 以下の概要は、阿満利麿『法年の衝撃 日本仏教のラディカル』(ちくま学芸文庫 2005)によります(引用というよりも要約です)。

 熊谷直実は、一ノ谷の合戦で、一子小次郎と同年であった平敦盛を討ちとったことで有名だが、それからおよそ一〇年後、五三歳の時、法然上人を訪れて出家した。出家に先だち、直実は、法然上人の弟子であった澄憲《ちょうけん》をたずね、そこで、待っている間に、直実は刀を研ぎ始めた。驚く人々に直実は、おおよそ次のようにいう。
 ここへ自分が来たのは、「後生《ごしょう》」のこと、つまり死後極楽浄土へ生まれるためにはどうすればよいのかを、訊ねるためにほかならない。もしも、切腹して命を捨てるならば「後生」が助かるということなら、自分はすぐさま腹を切るつもりで、そのためにこうして刀を研いでいるのだ、と。
 ただちに直実は、法然上人のもとへ送られ、「後生」を問いただし、法然上人は、
 「後生」が助かるか助からないかは、その人が生前どのような罪を犯したか、重い罪であったか軽い罪であったか、によって決まるものではない。ただ、念仏をすればよいのだ。極楽浄土に往生することは間違いない。ほかに特別なことはないのだよ。と答えます。
 聞き終わると、直実は泣き出し、問う上人に、いくさで多くの人の命を奪ってきた直実は、
 わが後生が助かるためには、手の一本、足の一本も切り捨てねばなるまい、いや、命さえも投出さずにはおれまい、とも覚悟していたのであるが、法然上人が申されるには、往生するには、ただ念仏さえすればよいのだ、と。これがうれしくて、あまりにうれしくて泣いているのだ、と答えた。

 源平合戦以前のいくさは、相対し名乗りを上げて行われていたようだし、それは、敵への敬意でもあり、自分はたまたまに勝ったが、打ち取られていたかもしれない、という相手への配慮が有意義であった、ということかもしれません。おそらく、この時代にそのようなものが失われてつつあったのでしょう。そのために、罪の意識が表面化し、悪に悩まされる、という事態が生まれてきたのかもしれません。そして、法然をはじめとした、鎌倉新仏教の台頭もあります。「救い」が可能である、という希望が生まれてきます。凡夫であっても出家や往生ができる、これが「悪」と向き合うことを可能にしたのだと思います。

 もともと、仏教は輪廻などに表れているように、「縁起」をその基盤に持っています。そこでは自らの意志や意図を認めず、「悪」というあらわれには、何らかの「因」があり、それらが組み合わさり縁起によって、「苦」に通ずる「果」として今に生起している、ということになります。自我とか自己は、経験として縁起が生起している場にすぎず、確固たる主体的な自己はない、としています。責任主体たる自我がないのだから、悪という行為は人に属するものではない、ともいえます。だから、かつて、「悪」を体現していたことに「苦」をおぼえ、念仏によってそれと向き合うことが可能となるのです。このような文脈で「悪人正機」を考えています。

 法然のひろめた浄土宗は、知られているように「専修念仏」で、念仏に専念(つまり、煩悩に向き合う)し、他の修行などはあえてすることはない、というものです。いかなる煩悩具足の凡夫であっても、念仏をとなえることで極楽浄土に往生できる、としています。つまり、念仏に専念していなければ、往生はできないのです。

 たとえば、早く救われて往生したい、として自ら命を絶つのは、念仏以外の方法に囚われているのだから、往生はできません。そして、悪人正機を曲解して、悪人は救われるのだから悪を行うのを正当化している「本願ぼこり」は、念仏(悪におののくことで悪と向き合うこと)を蔑ろにしています。

 しかし、極楽浄土は、死後に行き着くところです。極楽浄土に往生できたかは、死後にしか分からないのです。生きている=念仏に専念している時には、往生できるかどうかは分かりません。このような疑問を持つこと自体が、念仏=往生の妨げにもなります。救われるのを「信じる」こと以外があってはいけないのです。願いが切実であればあるほど「信じる力」はより強固なものとなります。なんだか、「世俗内出家」のようですね。

 と、煩悩まみれで、信じるよりも疑問が先に目についてしまうような、ひねくれ者による見解でした。