壇ノ浦の戦い
五月八日に放送されていた第18回『鎌倉殿の13人』では、〈壇ノ浦の戦い〉が描かれていました。とはいっても、見ていないのですが、以前から〈壇ノ浦の戦い〉には異様さを感じていました。
壇ノ浦の戦いの前哨戦といいますか、一連のいくさの中に〈屋島の戦い〉というのがありました。那須与一が戦場に掲げられた扇を、矢を放ち撃ち落とした、という逸話で有名ですね。夕暮れ近くになり、休戦状態になっていた時に、平家方の女房が船に扇を掲げ、「射落としてみよ」というようなことを言いました(どれだけ声を張り上げたのでしょうか)。それに応えて、那須与一が見事に射落とし、平家・源氏双方から称賛されます。そして、称賛の意をこめてでしょうか、平家側の武者が船上で舞います。それを見た源義経は与一にその武者を入ることを命じ、命中させた、といいます。そのときの平氏側は、何が起こったのか理解できなかったのでは、と思います。掟破りだったのでしょう。休戦状態であるにしても、戦場に女房がいるくらいですから。
そして、舞台は壇ノ浦へと移ります。源氏側も水軍を取り込んでいますが、海上での戦いを得意とする平氏に有利な条件です。そこで、大将たる義経は戦闘員でない船の漕ぎ手を狙わせます。それが史実かどうかわかりませんが、奇策を弄したのでしょう。平氏側は戦闘能力の喪失より、目の当たりにした出来事による動揺からのダメージが大きかったのかもしれません。やがて平氏の敗北が明らかとなり、武者たちは海に身を投げました。
その平氏ですが、平清盛(1118~1181)が1167年に太政大臣になり、この前後が最盛期でしょう。清盛の正室(継室)は平時子(二位尼)で、娘に徳子がいて、高倉天皇の中宮となります。建礼門院徳子です。徳子は安徳天皇を生み、国母となります。
1185年の壇ノ浦の戦いにはご承知の通り、安徳天皇・二位尼・建礼門院徳子もその場に居合わせていました。平氏が敗れると、二位尼は幼い安徳天皇を抱いて入水し、それを目撃した中宮徳子や女房達も後を追い入水した、と伝えられています。
それにしても、幼い天皇たる孫を抱いて入水なんて、異常としか思えません。戦いの場で天皇が亡くなっているだけでも、一大事です。天皇が臣下に殺害されるのなんて、崇峻天皇しか思い当たりません。臣下といっても、大王家よりも蘇我氏の力のほうが大きかったようだから、天皇の座は蘇我氏の思うままだったような時代です。天皇は確立していなかった、とされています。平安時代末期だれば、天皇による体制が確立しているのだから、安徳天皇は悪くても廃位、流罪になるくらいなのに、なぜ、です。
この「なぜ」ですが、二位尼の強烈な「憤り」が原因だと考えています。それは源氏、つまりは義経に対するものです。だから三種の神器とともに、なのでしょう。そして、その場で建礼門院は助け出され(不本意ながら?)、京へ送り返され、出家します。哀れすぎです。
そんな意味で、「判官びいき」として、義経は人気がありますが、好きになれないのです。