モノ言う市民
「モノ言う市民」とはもちろん、「モノ言う株主」からの連想なのだが、まったく逆の志向性を持っている。その市民は本来、権力の源泉をになうものであり、その立場から発言をしなければならず、それは一種の義務のようなもの、と考えればいい。しかし、すべての市民がそれを積極的に実践する必要はない。その場が開かれているだけでよい。市民にとっての義務とは、潜在も含めての「権利」でもあるのだから。
さて、その権力であるが、司法・行政・立法の三権をはじめ報道・教育も含めて考えればよいと思う。受動するだけではなく、私たちの手の届くものにしなければならない。それは一度も手中にあったことはなかったが、取り戻さなければいけない。
たとえば、「皆様のNHK」ではなく、「わたしたちのNHK」でなければならない。受け手こそが主体になるべき。
とはいっても、市民は権力そのものではない。権力に甘言のような心地よさを求めるのは、「義務=権利」の放棄になり、市民の場では淘汰されるはずだ。
しかし、ここに「三・五%」という数字がある。なんの数字かわかるだろうか。ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、「三・五%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのである。
フィリピンのマルコス独裁を打倒した「ピーオウルパワー革命」(一九八六年)、大統領のエドアルト・シェワルナゼを辞任に追い込んだグルジアの「バラ革命」(二〇〇三年)は、「三・五%」の非暴力的な市民不服従がもたらした社会変革の、ほんの一例だ。
そして、ニューヨークのウォール街占拠運動もバルセロナの座り込みも、最初は少人数で始まった。グレタ・トゥーンベリの学校ストライキなど「たったひとり」だ。「1%VS99%」のスローガンを生んだウォール街占拠運動の座り込みに本格的に参加した数も、入れ代わり立ち代わりで、数千人だろう。
それでも、こうした大胆な抗議活動は、社会に大きなインパクトをもたらした。デモは数千人~数十万人規模になる。SNSでその動画は数十万~数百万回拡散される。そうなると選挙では、数百万の票になる。これぞ、変革の道である。(斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書2020 362頁)
が希望の拠り所となる。