サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

読書を楽しむ

 Hatena Blogのホームを開くと、「週刊はてなブログ」の「Editor's Pickそれぞれのやり方で、読書を楽しむ」という文章が目に入りました。

 仕事上、本を参照する必要のない者としては、多くの本を読んでいると思いますが、では、楽しむために読書をしているのか、と言われれば、そういうケースは稀です。知的好奇心、といえば聞こえはいいですが、役立たせるために読んでいる、という場合がほとんどです。じっくりと読んでいる本も常に一冊はあります。今はジュディス・バトラー著『ジェンダー・トラブル』です。以前、途中で読むのを止めてしまったので、再読とはいえないかもしれませんが、このような難解な本はじっくり味わったり、楽しんで読んだりできるものではありません。悪戦苦闘しながら読んでいます。あえて、そんなことをしているのはマゾヒスト的楽しみなのかもしれませんが。

 余談はこれくらいにしておいて、数年前のことであったと思いますが、はっきりと記憶に残っていることがあります。ブックオフで古書を物色していた時のことです。おばあさんが108円均一コーナーで本を見ておられました。10冊くらいの、半分以上は通読しないような本をかかえてレジに行くと、前にそのおばあさんが一冊の文庫本を持って並んでおられ、楽しみが待っているかのような感じで、お支払いをされていました。それを見ていて、なんとも「愛おしい」と心を動かされ、幸せのおすそ分けをいただいた気持ちになりました。彼女のような人こそ純粋に「読書を楽しむ」のです。

 読書を楽しむ、このような習慣は持っておくべきです。まず時間を持て余すことはありません。多くの趣味は長時間、毎日できるものではありません。読書なら、本を図書館で借りれば、コストは交通費くらいですし、空いた時間があればいつでも始められ、途中でやめれれる手軽さもあります。時間つぶしにテレビを見たり、ネットで訳の分からないフェイクな情報見つけたりする必要もなくなります。読めば読むほど読みたい本が増えるばかりで、時間が足りなくなるのですから。

 時間を持て余しているから、おかしな考えに凝り固まって妄想したり、考えなしに行動に移したりするのです。そのような時間が少なくなるだけでも好循環の一端です。別に名作や理論的な本を読む必要はありません。変な思想にかぶれないために、バランスだけは心がけましょう。極論すれば、小学生の授業の大半を「読書の楽しみ」を習慣付けることに費やしてもいいと思います(それに伴う感想文と)。課題は、精神的に余裕がなくなって、読書どころか多くのことができなくなってしまうのをいかに防ぐかだけです。それは読書に関してだけではなく、大きな社会問題なのですが。

 

他者の苦しみ

 ブログの記事を書くにあたって、まずメモをつくるのですが、その時はいい発想だと思っていたものが、いざ文章にすると「これってどこかで読んだことがある」、という気がすることがよくあります。また、一文そのものがかつて聞いたことそのものであり、記憶がよみがえったものだ、という意識はあるのですが、出典元が思い出せないこともよくあります。

 「他者の苦しみを苦しむ」という言葉もそうです。誰の言葉であったか思い出せないですし、その言葉に触れる機会が度々あったのかもしれません。「他者が苦痛の中にあるということが、私の苦痛になる」ということなのですが、苦痛はできれば味わいたくないものですし、仏教では「苦」(快さえも苦としていますが)からの解放を第一としています。なのに「なぜ」そのような情動にとらわれてしまうのでしょうか。つまり、苦しみは、理不尽であるとか想定できていないような体験をすることで生じます。そのような「苦しみ」にさらされている人たちの経験を感じることはできませんが、理不尽にも、私はその「苦しみ」を体験を経ずして、それを「ある苦しみ」として引き受けて「苦しみ」ます。なぜそのようなことが生じるのか、ずっと考えていました。「良心」や「共感」などのキーワードで説明できそうですが、釈然としません。

 たとえば、ウクライナ情勢がそうです。つい、ニュースや記事に注目しますし、自ら求めもします。無関心でいる方が精神衛生上良いであろうにかかわらず、自らの心が痛むのが分かっている、のにです。

 無関心での平安よりも「苦痛」というリスクに身をさらし、負荷を抱え込むという選択を無意識におこないます。それは「快」なのでしょうか、「昇華」への「自浄作用」なのでしょうか。

 災害や戦争で同じ場にいた多くの人たちが亡くなり、自分は生き残ってしまう。「あの人は亡くなり、私は生き残った。私があの人であったかもしれないのに」。生き残ることは肯定されるべきことなのに、それが苦痛の原因になってしまう、論理的ではありません。私はそのような経験はないのですが、眼の前で、そのようにして人が亡くなる、という経験は、そのように苦しむことによってしか、癒すことができないのかもしれません。

 東日本大震災で、「津波からの避難」を呼びかけていた女性職員が、避難が遅れて亡くなってしまった、という悲惨な事故がありました。逃れることも可能であったろうに、あえて使命を果たされたのだと思います。彼女にとっては日常業務であったのですが、危機的状況にあっては、自らの避難のことも考えておられた、とは思います。ではなぜ?人命至上主義より大事な守るべき、個をこえた「いのち」を守りたいがゆえ、自らが被害に遭うことを考えるより、それに突き動かされておられたのだと考えています。そしてこのような事故は、いくら環境を整備しても、人間が「他者の苦しみを苦し」んでしまう存在である限り、無くならないでしょう。

 と、そのようなことを考えていたら、ふと、ジグムント・フロイドよる「エロスとタナトス」が頭をよぎりました。エロスとは生きることや快などの生の本能で、タナトスとは「死の欲動」と訳されています。エロスは説明不要でしょう。タナトスとは、生命は無機質から生じたもので、それはただ「ある」というだけですから、安定した状態にあり、その状況(死)への志向、をいいます。「生きる」ということは不安定な状態であり、ストレスを常に受けている、とされており、そこからの解放を求めるのです。「母胎回帰願望」と言えば分かりやすいかもしれません。それでも、いきなりタナトスに支配されてはいけないので、エロスに従い一時的な「快」を得ることで、ストレスから解放される、と説明されていた、と記憶しています。

 そのエロスなんですが、連想されるのはセックスですよね。多くのリビドー(性的欲望)だけに従った、自己中心的な(自らの生理的現象としての快しか考えない)セックスではなく、エロスに従うセックスです。どの段階からをセックスと言うのかも問題ですが、その行為において生じたエロスに従うセックスです。分かりにくいですね。普段は隠している身体部位を露出し、相手に自らを「さらしてゆだねる」、という危険を冒した場で生じてくる、「何か」に従う(囚われる)ことで得られるセックスでの快、と言えばいいのでしょうか。うまく説明できません。

 エロスにしてもタナトスにしても、それは私に属しているものではありません。様々な形を持ってあらわれ、私を拘束する欲動です。そしてエロスは危険=苦痛というタナトス的要因を経ることで実現する、といえます。分子生物学の知見によると、「性の発生が死を運命付けるようになった」とされてもいます。

 「他者の苦しみ」について話を戻します。先に述べましたように「他者の苦しみは他者の経験」でしかありません。しかし、私たちは苦しみに「感染」しやすいとしか考えられません。まるで、「苦しみ」という大いなる「いのち」に、さらされ囚われているか、のように……です。また、「生きること自体がストレス」だとも述べました。そして、苦しむこともストレスです。ということは、苦しむことで生きていることを実現(実感)しているのかもしれません。
 そして、エロス(セックス)では相手に身をゆだねる、というある意味の危機=苦を経ることで快を手に入れます。それは「苦しむ」も同じだと思います。ある経験が「苦」として受け止められ、悲嘆にくれ、そしてやがて、苦しみはじめます。そこから逃れたい、という意思があるから苦しいのかもしれません。「苦」からの解放を願います。私たちは伝聞にしろ、人がそのような状態にあることを知ると、心が傷つきその人がそこから解放されるよう祈るでしょう。その状況が解消されれば、苦は昇華され、苦しんでいた人たちには歓び=快が訪れます。「苦しむ」のは願いであり、祈りであるのかもしれません。希望がなければならない、ということです。

アゾフ大隊

 「アゾフ大隊」について、民族主義やネオナチというイメージを持っていて、危険な存在だ、と思っていました。
 
 四月二十二日の毎日新聞の『アゾフ大隊「極右」誤り 元ウクライナ大使指摘』『ウクライナ戦闘部隊「アゾフ大隊」 露「ネオナチ」強弁、標的に』の二本の記事に触れて、これって、プーチンプロパガンダそのままじゃないの、と反省しきり。後者の記事より引用。

 ……元々は極右グループを中心に結成されたこの組織はネオナチ思想との関連性が指摘されたこともあり、「ウクライナの非ナチ化」を掲げるプーチン露政権にとって格好の標的だ。

 アゾフ大隊の誕生は2014年にさかのぼる。この年の2月、親欧米派の市民と民族主義者らによるデモが親露的なヤヌコビッチ政権を崩壊させたのが始まりだった。プーチン政権は反撃として南部クリミア半島を軍事制圧して一方的に編入、東部のドネツク、ルガンスク両州では親露派武装勢力ウクライナ軍の戦闘が始まった。

 ウクライナでは当時、兵力が不十分な軍を補強するため、オリガルヒ(新興財閥)の資金拠出で民兵部隊が次々生まれた。極右グループを基盤として、ユダヤ系の富豪コロモイスキー氏らの支援で14年5月に創設されたアゾフ大隊もその一つだ。

 ……英メディア「インディペンデント」によると、創設者のアンドリー・ビレツキー氏(42)は北東部ハリコフ出身で元フーリガン(暴力的なサッカーファン)の白人至上主義者と指摘されてきた。

 ただ、アゾフ大隊は14年11月に内務省傘下の国家警備隊へ編入されて以降、政府からの圧力もあり、過激主義的なグループの排除や隊員の多様性をアピールしてきた。軍本体が戦力を強化したため、大隊の役割は低下したとも言われた。

 注目された創設者のビレツキー氏は14年に最高会議(国会)議員に当選し、大隊を離れた。16年には共鳴する大隊出身者らと極右政党を結成したが、19年の選挙で2・15%しか得票できず、自身も落選した。

 アゾフ大隊の問題に詳しいドイツ人研究者のウムランド氏は「欧州諸国の多くと比べると、ウクライナで極右グループは力を持っていない」と独メディアに話している。
   
   毎日新聞 2022/4/22 05:00

 


   
 考えてみれば、NATO加盟を目指しているのだから、そんなマイナス要因になる組織を温存しておく必要はありません。東部の親ロシア派や一方的なクリミア半島編入にもかかわらず、突然の、理不尽な軍事侵攻を考えていなかったのだから。

生娘って時代劇じゃあるまいし

 暴言もここもでのレベルの「おバカさん」はあまり記憶にありません。

問題となった発言は早稲田大学の「デジタル時代のマーケティング総合講座」で起きた。当講座は4月から7月に80時間をかけて行われる社会人向けのプログラムで、受講費用は38万5000円。

開講初日の4月16日、対面授業でキャンパスに集った受講生たちに課されたのは、牛丼チェーン吉野家マーケティング課題の解決策をグループで話し合い、発表するというものだった。

講師は吉野家・常務取締役企画本部長の伊東正明氏。吉野家は18歳から25歳までの若い女性の集客に苦戦しており、こうした女性たちを取り込む施策を考えて欲しいと説明する過程で、伊東氏は「生娘をシャブ漬け戦略」と笑いながら複数回発言。「田舎から出てきた右も左も分からない女の子を無垢・生娘のうちに牛丼中毒にする。男に高い飯を奢ってもらえるようになれば、(牛丼は)絶対食べない」と話していたという。

……男性客に対しても『家に居場所のない人が何度も来店する』という趣旨の発言がありました。
https://www.businessinsider.jp/post-253254

 不適切発言どころか暴言である、と言われていますが、発言内容はもちろんですが、マーケティングだけしか頭にない下劣な品性に、より不快感をおぼえます。この種の発言は、プライベートな、例えば飲み会なのではあるかもしれません。しかし、そういう場であっても「いやな空気」になってしまうか、聞かなかったこととして流されてしまう、こともあります。それを、公な立場で講座という場で発言する、という感性の持ち主です。そのような人物を取締役としている会社も、ビジネスにとらわれ過ぎて多方面への配慮がないのだ、と思います。

 少し発言内容に触れます。「シャブ漬け」とありますが、「化学調味料漬け」なのでしょう。化学調味料は習慣性がある、といいます。幼いころ祖母はよく「味の素はミーさん(蛇のことです)の目をつぶしたもの」と言っていたので、家にはありませんでした。そして、居酒屋などへ行くようになった年頃に、サッパリしようと考えて、漬物(当時は化学調味料がかけられていました)を食べたのですが、多くかかっているところのものを食べたのでしょう、いつまでも口に残って、気持ち悪くなった経験があったので、化学調味料に対して、敏感になっているのだと思います。今はどうかわかりませんが、「吉野家の牛丼」でも後味が悪かった経験があったので、一度しか行ったことがありません(よく行っていた「なか卯」は、それをうまく使われていたと思います)。

 「男に高い飯を奢ってもらえるようになると、絶対に食べない」、と言っていますが、「高い飯」と化学調味料使用の習慣性のある「ジャンク・フード」はまったく別のジャンルにあるのにもかかわらず、同一の基準で判断しています。両方を好む人はいくらでもいます。そして、当該氏は高収入であろうから、「高い飯」だって食べていたり、奢ったりしているでしょう。この発言から推測すると、自社の牛丼は、業務の一環として口にはするが、望んでは食べていない、ということになります。

 「家に居場所のない人が何度も来店する」、マーケティングを専門とする人の発言とは思えません。だって、吉野家での滞在時間は十分くらいのものだろうから(かつて私は、お酒を飲みに行った後、近所のなか卯牛皿とビール二本で一時間ぐらいぼんやりするのが好きでしたが)、時間つぶしにはなりません。ゆっくりするならコーヒーショップなどで過ごすでしょう。毎日、日に何度か立ち寄ることもできます。

 倫理面を問わなくても、いい加減な内容です。

 そして二月二十四日以降、「私はあなたであったかもしれない」という「他者への感受性」が問われているにもかかわらず……。

京都府知事選2022

 本日四月十日は、京都府知事選挙の投票日で、候補者は、現職の西脇隆俊と新人の梶川憲で、一騎打ちとなっており、相も変わらず、反共産対共産の対立構図になっています。京都市市長選もそうなのですが、ただ単純な対立を際立たせているだけにすぎず、関心の持てないものになっています。京都府とか京都市クラスの規模の自治体であるなら、もっと多方面からのアプローチが、あってしかるべきだと思うのですが……。

 思い返せば、2020年の京都市市長選では、反共産に二人の候補者が立ち、危機感を持った現職サイドが、地元紙である京都新聞に「非共産」を訴える意見広告を出し、写真掲載された著名人も含めて、抗議を受たことが判明するや、翌朝には市内各所で、いかにも有力者らしき人たちが、「その件には触れず」に支持を訴えていた、ということも見聞きしました。単純な「対立」を強調するだけで、対立側への論理の伴わないアンチ感だけに基づいているものだったから、考えなしだった、ことも当然なのかもしれません。選挙民であるにもかかわらず、第三者的に「白けてしまった」のを憶えています。

 その記載内容は、

 京都はいま大きな岐路に立たされています。わたしたちの京都を共産党による独善的な姿勢に陥らせてはいけません。国や府との連携なしには京都の発展は望めません。
    未来の京都をつくる会

 というものでした。こういう主張を「独善的」ともいいます。

 話を戻せば、対立構図にとらわれる、ということは、権力にとらわれている、ということでもあります。当選しなければ、政権を担《にな》わなければ、政治に影響を与えられない、という発想に囚われているのです。それは政治をそのお客や消費者意識であると考えているような「大衆」に向けて為されるもの、としてしか扱っていないのです。権利に自覚的で「当事者意識」を持つ「市民」という層は考慮されていないのでしょう。

 そういう「市民意識」の受け皿になるような候補者が必要なのです。その候補者は当選する必要はありません。正論にこだわり、争点になっていない小さなことでも合意点に導き、明確にしていく。大きな公約など必要ありません。他の候補者の政策のあいまいな部分を問い正すのを第一とする、そのような候補者が必要とされています。対立といいますか差異は、合意が形成されていて、それに基づいてのものでなければいけない、と考えます。 

難民と避難民

 「ウクライナ避難民」という発言に不自然さを感じていました。「避難民」というと、住んでいるところで災害などに逢われて、やむなく安全なところへ移ってこられた、という状況を思い浮かべるからでしょう。しかし、それほど深くは考えていませんでした。

 日本も加盟している難民条約上の「難民」は、元々は自分たちの住んでいた国から人種や宗教、政治的意見などを理由に迫害を受けている場合を想定している。岸田首相の16日の会見でも、「難民」ではなく「避難民」という表現が使われていた。
  それでは、他国の侵略から逃れた市民は「難民」に該当しないのか。渡辺弁護士は「今のウクライナの状況を見れば、まずは迫害の恐れを確認し、難民としての受け入れを進める必要がある」と話す。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の「ガイドライン12」(16年)では、難民発生原因となる「武力紛争および暴力の発生する状況」は「二つ以上の国家間」における事態も含まれると明記されている。
 ならば、なぜことさらに「難民」と「避難民」を区別するのか? 「ウクライナの人たちを難民と認めてしまうと、これまで難民としての保護を十分に尽くしていないアフガン難民やミャンマー難民との対比が明らかになるのを恐れているのでしょう」と渡辺弁護士は指摘する。
 3月15日の米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は、ウクライナ情勢の関連記事の中で、<世界で最も難民に冷たい国の一つ>である日本がウクライナから47人を受け入れたことを報じている。記事には、<日本政府は、日本に家族や知人がいるウクライナ“避難民(evacuees)”を受け入れ、90日のビザを与えると述べた>とあり、これほどの人道危機にあっても難民(refugees)ではなく「避難民」という表現にこだわり続ける日本政府を皮肉るような内容になっている。
        毎日新聞 2022/3/22

 

 なるほど、そうだったのか、と思いました。「難民」はより「逃れてくる」、という事態の深刻さが大きいのだと思います。
 引用中にある「ガイドライン12」を検索しました。『別冊-難民保護に関する国際基準.pdf』より「国際的保護に関するガイドライン12 2016/12/2」の当該しているであろう部分を引用します。
 

   44  ……以下にあてはまる者に難民としての保護を提供するとしている。
 「外部からの侵略、占領、外国の支配若しくは国籍国の一部若しくは全部における公の秩序を著しく乱す事件のゆえに出身国または国籍国外に避難を求めるため、常居所地を去ることを余儀なくされた者」

非難を強いられる状況
   54 該当する状況は「外部からの侵略」によって引き起こされる。……これらの状況には、他国の武装勢力の(構成員の)存在または外国の武装勢力による襲撃を原因とするものを含め、外部の者の関わりにより激化したまたは近隣諸国から拡がって武力闘争が含まれる。
   55 ……武力紛争および暴力の発生する状況は「外国の支配」を伴うものであったり、また外国の支配の結果であり得る。これには、一つまたはそれ以上の他国(の主体)、国家の連合または国家が管理している国際機関による国家に対する政治的、経済的または文化的支配が該当する。

 とのガイドライン(指針)を示しています。国家間の紛争という事態も含まれます。「ウクライナへの侵攻」ではウクライナの公の秩序を著しく乱していますので、居住地から逃れてきた人たちを、「難民」であるとするのが、正当であるように思います。「避難民」とは疎開してきた人たちなのではないでしょうか。安全が確保されれば戻ろうとするでしょう。ということは、避難民として受け入れた我が国は、安全が確保されれば、生活基盤を失ってしまった人たちをウクライナへ帰国してもらうことを優先する方針なのでしょうか。
 
 朝日新聞3月29日での「ウクライナ侵攻」記事での二つの記載をみれば、以下のような「難民」と「避難民」の使い分けがスタンダードなのだなと理解できます。

 国連難民高等弁務官事務所UNHCR)によると、人口約4100万のウクライナで、2月24日のロシアの侵攻後、国外に逃れた人は3月26日時点で約382万人にのぼる。約1カ月でこれほど大勢の人が難民となるのは第2次世界大戦以降で初めてという。
  
 ロシアによる侵攻で家を追われる人たちが増え続けているウクライナで、国外から避難民の支援に駆けつける人も少なくない。私財を投じて「何かの役に立ちたい」と個人的に奔走する人もいる。
 避難民がウクライナ各地から集まる西部の都市リビウ

 

存在しない女たち

 手に取っていなかった『存在しない女たち 男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く』(キャロライン・クリアド=ペレス 神崎朗子訳 河出書房新社 2020)を読みました。というより、飛ばし読みです。フェミニズムの良い面と悪い面が表れている、という印象を持ちました。

 フェミニズムとは「この社会では男性が基準《デフォルト》になっており、さまざまな面で女性が生きにくい社会構造になっている」ことを明らかにし、社会から女性は女性として配慮されねばならず、性差を超えて共存してゆける社会の実現への過程、としての意義があると考えています。不利を被っているのだ、という問題提起です。このことを本書でも強調されています。しかし、以下の引用には疑問を持ちました。

 ……最近のブラジルでの調査では、女性の3分の2は移動中に性的ハラスメントや性的暴行の被害を受けた経験があり、その半数は公共交通機関でのできごとだった。いっぽう、男性でそのような被害を受けたのは18%にすぎない。したがって、セクハラや暴行をしたこともなければ、目撃したこともない男性たちはそんなことが起きていることさえ知らなかった。     (70頁)

 女性は理不尽な性的関心にさらされていて、プライベートな面で、「男性と対する」恐怖まではいかなくとも、不安を持っている、と言っていいでしょう。いつ性的被害を受けるかもしれない、ということが常に頭の片隅にあるのだと思います(男性であるので断言できません)。その意味で女性の性的被害について声をあげるのは理解できます。

 しかし引用中にあるように、67%の女性と18%の男性が性的被害にあっている、と述べています。約五人に一人の男性が性的被害を受けているのに、「18%にすぎない」で済まされてしまっています。統計として女性が多いのは明白ですが、被害をいう時には統計よりも、個人が問題なのです。こういう問題意識は「男性的」論理によるものではありませんか。いうまでもなく、性的被害を受けた男性は、女性と同じく性的対象として見做されているのですから、性的被害としての問題としなければいけないのに、それをフェミニズム的、へとすり替えています。

 そして、セクハラや暴行をしたこともなければ、目撃したこともない男性、なんて存在するのでしょうか。いるとすれば、そういう自覚が欠如しているだけだと思うのですが……。ちなみに私は、すべての女性は何らかの「性的被害」の経験がある、と思っています。たぶん女性への性的関心が強いからでしょう。

 本書には、これをフェミニズム的な問題として扱うのは、少し強引すぎるのでは、という例が多くあります。ひとつだけ例を拾うと、2014年のシエラレオネエボラ出血熱が発生した時など、〈女性たちがケア労働をを担っていることも、パンデミック時には致命的な結果を招きやすい〉、としています。今回の新型コロナ禍でのパンデミックで明らかになったように、「ケア労働の軽視」が問題なのです。

 しかし、重要な告発もあります。

 女性はヒステリックで、頭がおかしく、非理性的で、きわめて感情的な生き物、と決めつけられていたり、スティーヴン・ホーキンスが女性は「ミステリー」、フロイドは「人類史はじまって以来、人びとは女性性という謎に立ち向かってきた」と語ったと言います。これには、ただデフォルトである男性からみて、という但し書きが必要です。 

 また、「感情的」とは「喜ぶ時は笑顔になり、悲しい時には泣く」という正統な反応が基本となります(女性はその射程範囲が広いのかもしれせん)。善きことは増殖させ、悪しきことは解消される、という浄化作用と言ってもいいでしょう。しかし、それが否定されれば負の反応を示してしまいます。私たち男性は不幸にも、それを制御することに価値を認めてしまいがちです。

 月経前症候群への研究助成金の申請は、「それは存在しない」として却下されてしまう一方、ED治療薬には様々な治療薬がある、と指摘します。ED治療薬への助成金があるかは知りませんが、緊急性がないにもかかわらず、高価でも需要があるのに対して、月経前症候群は、「存在しない」という不可視なものにされてしまっています。

 その「不可視」ですが、女性の体が不可視性のもとにある、と言います。〈医学、テクノロジー、建築などのデザインや設計において、女性の体の特徴を考慮してこなかった〉と指摘します。スポーツはその顕著な例であります(まさしく体を使うのだから)。全てといっていいくらい、スポーツは男性の身体能力を基準に設計されています。女性がそれで優れたパフォーマンスを実現するのには、無理が生じ、身体活動として不自然であるといえます。

 訳者である神崎朗子は基準にデフォルト、とルビをつけています。defaultとは、初期設定などの意味でよく使われています。パソコンなどの購入時の接続やメール設定だけをした状態ですね。何らかの目的をもって使用するには、そのままでは不便ですので、設定する必要があります。そして、辞書で調べると、まず「不履行」という日本語訳が出ています。約束などを実行しないことです。目的を機能させていないのです。約束をしただけの状態ですね。約束は実行者にとって負担となりますし、可能性に限界を与えます。これが初期設定・基準で、不都合は必ず発生します。それを方向付け、有意な可能性へと設定しなければいけません。