サンガの寅さん

中学生が理解、批判できる、をモットーとしていますが、記事が健全な中学生には、不適切な内容のこと、もあります

選挙のための政治活動

 日本維新の会馬場伸幸代表は28日の記者会見で、「選挙は非常に厳しい戦いだ。女性の優先枠を設けることは、国政でも地方議会でも我が党としては全く考えていない」と述べた。「たった1人が当選するという厳しい選挙の中では、私自身も1年365日24時間、寝ているときとお風呂に入っているとき以外、常に選挙を考えて政治活動をしている。それを受け入れて実行できる女性はかなり少ないと思う」とも語った。
                      朝日新聞2023年3月29日より

 と、統一地方選での女性優先枠を設けるか、について述べられました。様々な立場の人が、政治の場へ進出することは、ひろく様々な価値観が反映する、という面で優れており、常に選挙を考えて政治活動をしている者、という同質的な集団では、見落とされがちな面があるからです。
 
 しかし、この点に関しては触れないでおきます。「常に選挙を考えて政治活動をしている」という点が気になるのです。選挙を考えて、というのは自身の支持層のことを考えて、ということになるのではないでしょうか。つまり、政治家は、全体の奉仕者であるにもかかわらず、一部の者たちの利益を優先する、と表明をしているように思えます。「常に(統一地方選でしたら)住民のことを考えて政治活動を」くらいは言えなかったのか、不思議に感じます。

虐殺器官


虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)感想
器官とは「動物の目・口・胃や植物の根・葉・花などのように、生物体の内部で特定の機能や形を持っていいる部分」(新明解国語辞典)。形あるものを機能面として見ていると言ってよいだろう。そして、虐殺器官とは、ことばのことだという。どんな言語であれ虐殺の文法がある。

 ジョン・ポールは、それを、過去の虐殺のデータを分析して見つけた。ことばは、虐殺の文法に従って利用できるのだ。シェパードが、宗教を、人間の肉体を離れた崇高な中枢があるとして、「魂の生が重要」と殺人の罪の軽減に利用したように。そのジョン・ポールの来歴はPR会社、貧しい国の文化宣伝顧問として、他国へ窮状と魅力をアピールするが、それが、プロパガンダで国内に目を向けさせる方向へ転換させ、不満をあおることで国内に敵味の分断をつくり、内戦に導く。

 ことば、身体と魂の。身体は外にあり思うままに加工できず、向き合わなければいけない。魂はイデオロギーとして扱える。身体のことばには、理性が立ち入ることができない。目の前でおこった出来事(経験)が、肉体に訴えかけるものであるから。対して、魂のことばは、出来事(経験)が情報として客観化されたところから生み出される。理性で処理されイデオロギーと化したものとなる。虐殺は現実・身体的であるが、多くの場合、イデオロギーによってもたらされる。そして、虐殺という悲惨な現実は、当事者にとって崇高なイデオロギーに基づくものとして、悲惨な現実の直視から逃れることが可能なものとなる。

読了日:12月03日 著者:伊藤計劃

月の満ち欠け


岩波文庫的 月の満ち欠け岩波文庫的 月の満ち欠け感想
佐藤正午は『書くインタビュー2』(小学館文庫)で、成瀬巳喜男の映画『乱れ雲』について触れ、「この映画は噓をほんとうに見せるために注意深く、手間をかけて、細部にこだわって、物語を一から作り上げている」と評している。「嘘をほんとうに見せることに成功している」。まさに、この小説も、素晴らしい水準でそれを成し遂げている。「とことん醒めた目で」読むことは「不可能なのです」。

 キーワードは「瑠璃も玻璃《はり》も照らせば光る」。そして、照らすのは満ち欠けする月でなくてはならない。

 人妻の瑠璃さんと大学生のアキヒコ君の不倫関係になるのだが、不倫が不倫として重く、業になる前に、瑠璃さんは死んでしまう、彼女が、「月が満ちて欠けるように」、と言った言葉の余韻のあるうちに。しかし、宙に浮いた彼女の想いは、満ちては欠ける月のように見知らぬ女たちに乗り移り、受け継がれ、彼女たちは、その呼びかけに応じてアキヒコ君の存在を求める、聖女が一心の信仰と受苦によってイエスとの一体感を得たように。

 月の満ち欠けは地球の影によって起こる。地球は太陽に照らされ、月に影を落とし、それを地球から見ると、明るい部分しか見えない。影は不在、見えない・見たくないもの、陰部そして隠されたもの、として不全の象徴で、ケガレの要因ともいえる。自らの陰で目を曇らせ、美しきものを見えなくしてしまっている。

 地球はこの世で、月はあの世(想い)のたとえか、あの世はこの世の影で曇らせられる。

 地球という光への障害が外れ、太陽に照らされて、月は満ちて浄化され、その光で、瑠璃が美しく照らされ、その光がアキヒコ君に届けられた。
読了日:12月02日 著者:佐藤 正午

モテたい理由 赤坂真理

p>12月の読書メーター
読んだ本の数:30
読んだページ数:8124
ナイス数:75

モテたい理由 (講談社現代新書)モテたい理由 (講談社現代新書)感想
女の歓びは、誘惑し関係の決定者という受け身の攻撃性にある、という。受け身の主体性、といってもいいかもしれない。それに根差す関係には二つあり、まず、①モテ・結婚・家族ラインがあり、モテという関係性で優位に立つノウハウが起点となり、制度的に固定される。それはビジネス本にある「印象とコミュニケーションの調整能力」のようなもので、能力でしかなく、重要なのは伝えたいことや、調整すべき状況だ、と指摘する。つまり、モテてての報酬、結婚して家族となって得られるものが重要なのであって、制度・能力が重要なのではない。

 そして、②セックス・妊娠・出産ライン、関係へと開かれているセックスが起点になるが、重要なのは妊娠ー出産で、それは女性のみの特権的な体験であるから、そこへ結果する可能性としてのセックスが位置している、としなければいけない。その点からみれば、セックスの持つ価値は女性の方が圧倒的に大きいのだろう。また、本能を喪失しているヒトの場合、起源が生殖であるセックスはそこから離れるから、他者への侵犯、暴力性のみが強調されやすい、だから、関係性という女性的なもの、になる必要があるのだろう。いいかえれば、セックスとは女性的なものなのかも?

 ①という能力・制度があり、付随するものとして②と見られがちだが、望むべきものとして②が本質で①は二義的な社会的能力というか、制度でしかない。結婚・出産・家族を結び付ける根拠はなく、制度として特権化するのは見当違い、であり、それらの制度は、一点集中しやすい男にとって馴染みやすく、関係性は軽視されてしまいやすい。これを男のオタク性と呼び、そこで遊ばせてあげなければ、「関係」に脅かされ、関係から逃げるだろう、と興味ぶかい指摘がある。
読了日:12月01日 著者:赤坂 真理

増補感想2211 その5

 

 

(26)となりのイスラム 世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代
イスラムには確たる行動規範があるが、多くの日本人はそれを受け入れることができないので、仲間になることはできない。だから、私たちは「となりのイスラム」として接することしかできない。しかし、ヨーロッパを中心に、イスラム移民の問題もある。それは、夢を求めて移民したのだが、現実の厳しさにさらされ、よりイスラムとして純化してしまい、体制に敵意を持つようになって起こる分断により引き起こされる。これは良く知られた物語、そこでは、すべては米欧が悪いとなる。だが一番悪いのは、イスラム教徒が安心して暮らし、国家がイスラム的な公正や正義をおこなう、という理想を実現できない「イスラム教徒の母国」で、そのため過激派などが生まれてくる、としている。
読了日:11月27日 著者:内藤正典
https://bookmeter.com/books/11091371

 

(27)欲望の経済を終わらせる (インターナショナル新書)
新自由主義は政府にGDPの上昇を至上命令とさせる。そして、GDPは市場の活動によってもたらされるのだから、市場に適さないものまで市場化される。公的な財源によってまかなわれていたことまで、市場へと。それが財政削減へとつながり、福利は縮小し、あまねく行き渡らなくなってしまった。そのために、機能不全に陥っている家族と共同体を、セーフティネットとして復権させようとした、そのような能力は、もはやないのに。平成30年の調査では生活が苦しいのは国民の6割だったが、4.2%しか下層と認識していない。低所得者は貧困になるかもしれないという恐怖から目を背けようと、ギリギリ中流、という幻想にしがみつく、視線をより下層に向けて。切実なのに「反貧困」という言葉は他人事、とやり過ごされるのだ。そもそも、日本では労働人口にしめる公務員の割合は低く、企業などの労働生産性は低い。企業が多すぎるために、競争による利益の減少があり、人材を必要なところへ配置できなくなってしまっている。
読了日:11月27日 著者:井手 英策
https://bookmeter.com/books/15787798

 

(28)歴史の屑拾い
著者の祖父には兄がいて祖母の婚約者だったが、兄は戦死してしまい二人が結婚した。この大伯父が生きていたら私は存在していない、と自身の存在を絶対化しない。このような視線で、現在から過去の断片である歴史を拾い上げ、積みあげ、記述しようとする著者の姿勢に惹かれる、歴史は断片の、としてしかありえないのだから。それをはっきりさせる説明に、歴史との対比で裁判があげられており、同じく過去の痕跡を扱うが、裁判では決裁されるが、歴史の記述は次世代に受け継がれ閉じることはない。歴史研究者は歴史の断片を屑拾いのように集め、言葉とする。それらの言葉は偶然出会った読者の目に触れ、著者の手からこぼれ落ちてしまう。謝辞や註や参考文献が必要なのは、偶然の出会いの記録であり、それをたどることで、当該の歴史書の解体に役立つから。
読了日:11月29日 著者:藤原 辰史
https://bookmeter.com/books/20328682

 

(29)世界は「関係」でできている: 美しくも過激な量子論
量子は波であり粒子であるという相反する性質を持つ。波であるから場に遍在しているが、粒子として観測される。観測が量子に干渉しているからだ。その波としてのあり方が「量子重ね合わせ」と呼ばれ、ある対象がここにありながらあそこにもあるという状態。見ることで性質が変化してしまうのでそれ自体は見ることはできない、波であったという痕跡を見ているだけ、それの残した痕跡を見れば、波であると考えるしかない。それは、観測者も量子も自然の一部で、外から観測しているのではない、ということ。孤立した対象自体は確率論的傾向を持つ発現の可能性があるにすぎない(あそこにもここにも遍在している、存在はしていない)。しかしそれが関係・認識されることで、観察者との認識という関係が成立することで存在としてたち現れる。
読了日:11月29日 著者:カルロ・ロヴェッリ
https://bookmeter.com/books/18602221

 

(30)増補 魔女と聖女: 中近世ヨーロッパの光と影 (ちくま学芸文庫)
キリスト教の知による「公」支配の中・近世ヨーロッパに、相似として時を同じく、聖女と魔女が現れた。貧しくて教会の勢力外の世界に生き、そのためフォークロアの象徴とされ、悪魔に取り憑かれているとされた魔女と、神に取り憑かれたとされた聖女。取り憑かれた(と認められた)のが、悪魔か神か、の違いでしかない。主に女が取りざたされたのは、弱いからだを持つ者としての女への偏見があったからだろう。男の精神性に対する女の身体性、しかし、イエスは十字架で苦痛に満ちた死を迎えたことで人間の罪を贖ったのだから、霊的ではなく身体的であったといえる。苦痛がイエスのそれとリンクすることで聖女に甘美な体験をもたらす。フェミニズムの起源にクリスチーヌ・ド・ピザン(1364~1430)を置く、多くの作品を残し、女性史の分野を開いた者として。女性知識人の知の伝承だけでなく、世俗を含めた女性としての教会を経ない知の、女性から女性への受け継ぎ、それは、男女同権ではなく女性の存在を主張している、としている。
読了日:11月30日 著者:池上 俊一
https://bookmeter.com/books/9723301

 

 

増補感想2211 その4

(19)家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ (角川新書)
「法は家庭に入らず」という精神は、明治民法から現在まで引き継がれており、家族は愛情によって結ばれている聖域だから、法的拘束力は必要ない、という観点に立脚している。言い換えれば、無法地帯でもあり、力関係があからさまである、ということ。そこで「家父長的権力という構造そのものに根差す暴力」があったとしても、愛情空間である家族という聖域のなかには、暴力など存在し得ない、という前提があるから、それは「愛情の発現」とされてしまう、と言う。DVや児童虐待などが後を絶たず、それへの対応のまずさの原因もそこに求められる。家族の価値に重きが置かれ、その私的空間が公的なものから切り離され、介入がためらわれる事態になっている。家族と国家は共謀して被害者を被害者であるままにしている。
読了日:11月19日 著者:信田 さよ子
https://bookmeter.com/books/17519307

 

(20)日本共産党-「革命」を夢見た100年 (中公新書 2695)
終章を熟読していただきたい。そして、興味がわけば関連年表と目次を参照して読み進めてほしい。その終章のタイトルは「変化を遂げた100年」であり、その100年の歴史には様々な変化があったのだから、とそこに左翼政党としての可能性を見ようとする、大きな保留をつけてだが。上意下達である民主集中制負の遺産の多い党名を変えないこと、への自己批判が必要なのである。党(名)の維持が何より優先され、日本の政治状況への影響力の行使を軽視する、その唯我独尊的な態度から転向し、これから共産党が向かうべき方向として、既存の政治・経済体制の枠内での改良に努める社会民主主義政党と、既存の体制を問題としてみるニューレフト的な民主社会主義への移行、をみている著者の見解にはうなずけるものがある。
読了日:11月20日 著者:中北 浩爾
https://bookmeter.com/books/19663826

 

(21)はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書)
自分のコナトゥス(ある傾向をもった力)に従って生きる。しかし、それが外部の力によって支配され実現できなくなると、自殺など、自身にとって否定的な現われになることさえある。それは、自己実現の自由、と環境ではなく支配によって強制される不自由。私たちは、行為を自分の意志で行ったことを自由と意識してしまうことがあるが、それは意識が結果だけを受け取るためだという。自由とは行為ではなく、自身のあり方なのだ。私は男や女であるが、それ以上に具体的な環境と歴史と欲望が交差する中で生きており、その影響のなかで出来上がる「力」、を本質として私はあり、それがコナトゥス(力=私)として生かされる。個人を男や女などという規定の枠にはめ込み、その力を踏みにじるのが不自由の典型。
読了日:11月20日 著者:國分 功一郎
https://bookmeter.com/books/16964330

 

(22)父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。
交換価値と経験の価値とを対比が興味深い。経済学者は市場の基準ではかり、経験の価値を軽んる皮肉屋で、現代社会はそのような皮肉屋の論理が支配的である、と言い、あらゆる領域にその影響力が及んでいる、とする。市場は公的価値に従い、経験は個人にとって価値がある。市場で交換されるには商品化されなくてはならない、たとえそれが、労働力としての人や土地や環境であっても、交換されるものであれば。交換価値を高めるための、惨事便乗型資本主義さえ現実となっている。また、公共の福利でさえも、負担と受益という交換の論理に回収されている。このような社会は、交換の場で優位にある者=支配者だけが国を支配する権利を持っている、と庶民に固く信じさせなければ維持できない、根拠のないイデオロギーをでっち上げてでも。
読了日:11月22日 著者:ヤニス・バルファキス
https://bookmeter.com/books/13571753

 

(23)死者と霊性: 近代を問い直す (岩波新書 新赤版 1891)
死者として「立憲主義」と「礼」が挙げられている。立憲は既に死者により成立している憲法が今を生きる者の民意(民主)を制限する、今在る者の利害判断である民主の暴走を防ぐのだ。憲法は様々な経験を重ねた過去から、今在る者、そして未来へ向けた遺言でもある。そして、礼の根幹は死者を先祖にするためのパフォーマンスなのだという。つまり、立憲も礼も死者との向き合い方。たとえば、大事な人が亡くなると、まず喪失感に囚われるだろう、その人の存在が無くなってしまったのだから。残されたのは記憶だけであろうか。いや、その人は死者として存在し、向き合う関係を持つことで今ある者を制限している、倫理の源泉なのだ。この関係こそが霊性に導かれているのだ、と言えよう。
読了日:11月23日 著者:末木 文美士
https://bookmeter.com/books/18354464

 

(24)マホメット (講談社学術文庫)
マホメットは宗教家であるだけでなく、優れた政治家でもあった。その教義は属する部族からの反感を受けたためにメッカを追われ、メディナで異部族のなかに同志を募ろうとしたためか、啓示内容がメッカ時代の終末観的表象から、メディナへ移ると現世的になり、日常茶飯事まで干渉するようになった、という。預言者から伝道師への重心の移動。このため啓示は神の永遠的なものから「歴史の地盤上において」「受肉し現実となる」。これが行動規範としてのイスラーム法であるが、それは「歴史的現実となることによって人間的なものに汚染し、次第に歪曲されて行く運命をもつ」ものとなってゆく。そのために様々な解釈が可能となり、その不安定さが、イスラーム以前ベトウィンの昔から過去こそ価値という習俗とつながり、イスラームは「純真無垢な宗教としての本来の姿に」とする傾向に傾き、原理主義へと変移しやすくなるのだろう。
読了日:11月24日 著者:井筒 俊彦
https://bookmeter.com/books/22180

 

増補感想2211 その3

(13)資本主義と民主主義の終焉――平成の政治と経済を読み解く (祥伝社新書)
1995年は、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件沖縄県民総決起大会があった1年。そして、経団連から「新時代の日本的経営」という報告書が出された。それは労働力の流動化を進め、人件費節約をはかるというものであり、資本は強化され労働者(組合)の弱体化が始まった。さきの三つの出来事とともに、今に至る大きな課題を知らせ続けている。そして社会の福利の資源である税金面では、1990年では税収60.1兆円、GDP451.7兆円。2018年では60.3(本書では予算ベースで59.1と記されている)兆円、548.9兆円だが、90年の率で計算すると73兆円の税収になるのだから、このGDP優先が社会の劣化につながっている。現在の民主主義には、資本主義による一定の生活水準の維持が必要としているのだろうから、両者の終焉があらわれてきている、と感じる。
読了日:11月11日 著者:水野和夫,山口二郎
https://bookmeter.com/books/13742377

 

(14)愛と暴力の戦後とその後 (講談社現代新書)
赤坂真理は日本の中学を出てアメリカの高校へ一時通っていた。それは親が「軍国主義みたいな日本の学校制度」から逃したかったからだろう、と推測している。彼女は親からみても学校に馴染めなさが目に付いていた、という自覚を持っていたのだろう。注目すべきは、彼女自身には「逃れたい」という意思を明確なものとしてはなく、何から逃れどこへ逃れるのか、という求めるものはなかったと推察されること。だから逃れた先のアメリカでも落ちこぼれ、別様の屈折をかかえた、と振り返っている。そんな馴染めなさに敏感な彼女の指摘している様々な違和感だから、立ち止まって考えさせられる。生活者が不信・不安にとらわれるのは、「管理側の論理と都合が最優先」にされていることが日本に閉塞感をもたらしている、からだろうと推測される。
読了日:11月12日 著者:赤坂 真理
https://bookmeter.com/books/7965709

 

(15)そろそろ左派は〈経済〉を語ろう――レフト3.0の政治経済学
お金儲けは素晴らしいことだ、それにより多くの負担ができ、弱者の手助けとなるのだから、とそれは現実からはかけ離れた理想論だけれど。世の中はそのような在り様には程遠い、ということを踏まえてなのだろうが、本書では「経済にデモクラシーを」と表明している。つまり、経済の効用があまねく行き渡ることを目的としなければいけない、ということである。それを軽視しているから、「大事なのは経済だけじゃない」が変質して「経済は大事じゃない」となった、という姿勢を持つ左翼の弱さにつながったことを指摘している、経済という土台をを見ないようにしていると。「経済にデモクラシーを」が優先されない最大の問題点に、エッセンシャルワーカーの待遇の悪さにあるといえよう。良好な待遇であれば安全安心も改善されるし、得た収入が消費へ回る、という良好な循環の経済の実現が必要と痛感させられる。
読了日:11月13日 著者:ブレイディ みかこ,松尾 匡,北田 暁大
https://bookmeter.com/books/12786410

 

(16)岩井克人「欲望の貨幣論」を語る
貨幣が社会に行き渡ることで「自由と平等」がもたらされ、そこには、貴族であれ庶民であれ、おカネを払えば誰でもその価値のモノが買える自由と平等がある。1万円を持っている人間同士はその価値を自由に使える平等があるということ、おカネの前には身分差はない。しかし100万円を持っている人と1万円持っている人は、当然、商品購入の場では平等ではない。それが所得や資産の格差がもたらすものであり、そこに新たな不平等を生まれる可能性が内在しており、自由と安定の二律背反を生きて行くしかない社会が現れる、という。交換過程でおカネを主体とすると、仕事と交換に「おカネを買ってい」て、その「おカネを売って」交換でほしいものを手に入れていることになる、おカネが将来も価値を持っていることを根拠として、という興味深い指摘がある。
読了日:11月14日 著者:丸山 俊一,NHK「欲望の資本主義」制作班
https://bookmeter.com/books/14784466

 

(17)水道、再び公営化! 欧州・水の闘いから日本が学ぶこと (集英社新書)
水道は最も重要なインフラだから、利益という基準には適さないので、競争・排除・対立という価値観ではなく、共生・包摂・協力へ、そのためにこそ市場に任せずに、政治のフェミナイゼーションに属するべきという。それには、住民と密接な関係にある自治体主導によるものを重視し、国家や(グローバル)資本の価値観に対しての優位さの実現への道を模索しなければいけない。今の世界では自治体は国家や資本というシステムがなければ成り立たないが、それらは自治体の活動のための影のような存在であるべきだろう。自立した、市民の声が届く多様な自治体同士の、様々な試行への接点を介した縁による連携やサポートが重要な鍵となる。
読了日:11月17日 著者:岸本 聡子
https://bookmeter.com/books/15379637

 

(18)イスラム教の論理 (新潮新書)
イスラム教では、コーランハディースというテキストを拠り所とした教義が重視される。たとえ、そこに記されている内容に矛盾があったとしても、アッラーの言葉であり、神の御心であるのですべては調和し整合されており、矛盾と見えるのは、さかしらな人間の解釈、という前提がある。かつては、それを統合・体系化された知としたのが、「高尚な知識」を独占していたイスラム法学者による解釈であった。しかし、インターネットの普及らにより誰でも聖典に触れることが可能となったことで、神ならぬ自分の都合で解釈をするようになり、拾い読みで偏った解釈によるもので、「異端」にさえならないような教えが可能となった。本来、イスラムの教義では物事はそれ自体に善悪はなく、善悪は神の判断にゆだねられている、そこに人間の理性が入る余地はないにもかかわらず。
読了日:11月19日 著者:飯山 陽
https://bookmeter.com/books/12628322